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I. 序論II. 個別作品の解説Core -2024-虚実の壁 / The Wall Between Truth and Fake -2023-私利私欲大曼荼羅 -2022-III. 作品間の共通点IV. 芸術的および表現の系譜A. キネティック・アートとサウンド・アートB. 現代美術における東洋哲学の原理C. 芸術表現におけるテクノロジーとデジタルメディアD. 没入型で概念主導の形式としてのインスタレーション・アートE. アートにおけるリパーパスされた素材と日常的なオブジェクトの使用F. 古代のシンボルの現代的な解釈V. 結論 I. 序論 本稿では、ARTIFACTによる過去作品、「Core -2024」、「虚実の壁 / The Wall Between Truth and Fake -2023」、そして「私利私欲大曼荼羅 -2022」を取り上げ、それらの間に見られる共通点を考察し、さらにそれらがどのような芸術表現の系譜を踏んでいるのかを分析する。これらの作品は、それぞれ異なるメディアとテーマを扱っているように見えるが、根底には現代社会における人間存在や認識、そして伝統と革新の融合といった共通の関心が示唆されている。また、キネティック・アートの彫刻(「Core」)、リパーパスされたオブジェクトを用いたインスタレーション(「虚実の壁」)、そしてデジタルと自然の要素を融合させた作品(「私利私欲大曼荼羅」)といった多様な表現方法を用いており、多岐にわたる概念を様々な感覚体験を通じて探求しようとする姿勢が窺える。 本稿の目的は、これらの作品を個別に詳細に検討した後、それらを結びつける共通の要素を明らかにし、現代美術史におけるそれらの位置づけを探ることである。 II. 個別作品の解説 Core -2024- 「Core」は、八卦図をモチーフに宇宙と万物の根源的なエネルギーである太極を表現した作品である 。この作品の中心には、八卦を表現したフェナキストスコープが設置されており、その各絵柄は小型カメラによってリアルタイムに捉えられ、潜在拡散モデルによって、各絵柄を示す44.1kHzの音源ファイルが常時生成される 。生成された音源ファイルは、無重力セッションによる Ambient Machine によって動的にリミックスされ、その瞬間の音を生み出し続ける。中心の太極からは、音と八卦の絵柄から生成された光象が空間全体に差し込み、各絵柄の表情は微小に変化し、生成される音も変容していく。絶え間なく生成と循環を繰り返すこのシステムは、宇宙の調和と循環を表現し、視覚と聴覚の分解能では捉えられない何かを心像に生み出す試みと言える 。   初期の映画装置であるフェナキストスコープを、AIとデジタルプロジェクションという最先端技術と組み合わせることで、歴史的な技術と現代的な技術との対話が生まれている。この組み合わせは、時間と知覚の進化というテーマを示唆している 。フェナキストスコープは初期の映像表現と動きの探求を想起させ、一方、AIとデジタルプロジェクションは、現代における視覚的および聴覚的な情報を生成し表示する最新の方法を表している。この並置は意図的である可能性があり、異なる時代の技術的レンズを通して、私たちがどのように世界を知覚し理解するのかを考察させている。   作品の説明にある「絶え間なく生成、循環するシステム」という言葉は、宇宙の絶え間ない流れと相互のつながりという東洋哲学の概念を直接的に反映している 。太極図は陰陽の相互作用を示し、八卦は宇宙の様々な側面を表しており、これらはすべて道教の宇宙論における重要な要素である。この作品は、視覚と聴覚の通常の限界を超えた感覚体験を生み出すことを目指しており、それは直感と精神性を重視する東洋的な考え方と一致する 。   古代の八卦の象徴性と現代のAIおよびキネティック技術の融合は、伝統的な知恵と宇宙に関する現代的な理解を結びつけようとする試みを示唆している。八卦は古代の宇宙論的枠組みを表し、AIは現代の計算能力を体現している。これらの組み合わせは、新しいツールを用いて存在に関する時代を超越した問いを再検討することを象徴している可能性がある。視覚パターンからAIを用いてリアルタイムで音を生成することは、絶えず変化するアートワークを意味し、それは仏教の無常の概念を反映している 。ライブの視覚入力に基づいて絶えずリミックスされるサウンドは、アートワークが二度と完全に繰り返されることがないことを保証し、仏教哲学で説明されている現実の絶え間ない流れを反映している。視覚と聴覚の分解能では捉えられない「心像」を生み出す試みは、合理的な思考を超えて、より深く、おそらく潜在意識的または直感的なレベルで鑑賞者と関わることへの関心を示唆しており、それは直感と精神性を重視する東洋の考え方と一致する 。感覚知覚の限界を押し広げることで、作家は理性的な思考を迂回し、鑑賞者の内なる経験や精神的な意識に直接アクセスすることを目指しているのかもしれない。             この投稿をInstagramで見る                       ɐɹnıɯ ıǝdɯıɥs(@_shimpeimiura)がシェアした投稿 虚実の壁 / The Wall Between Truth and Fake -2023- 「虚実の壁 / The Wall Between Truth and Fake」は、2323年12月8日という遠い未来を舞台に、貧困に苦しむロボット(通称、イエロー)たちが、亜細亜統一ブロックで最も購読されている「人機統一新聞」の朝刊を切り抜き、解体した後、切り抜き新聞・ラジオ・スポットライト・壁面を使用して新聞の情報を再構成することで、情報と向き合う自らの身体性の再学習を試みた様子を描いている 。ラジオの報道とスポットライトで照らされた壁面の記事内容は完全に同期しており、報道が変わるたびにスポットライトは無機質な動作で記事を照らし続ける 。イエローたちは、ラジオとスポットライトから主体性を失った視覚と聴覚の関係性を経験し、切り抜き新聞を壁面に貼り付ける行為を通じて世に溢れる情報群の再統合を経験する。これら一連の経験を通じて彼らの頭脳は再学習される。この行為は、この世の虚実の情報へのささやかな抵抗であり、後にイエローたちによるラディカルな芸術運動へと繋がっていく 。   ロボットたちが新聞を物理的に切り取り、再構成するという行為は、デジタル時代における情報のますます非物質的な性質に対する批評を示唆しており、情報との触覚的な関わりへの憧れを示している。高度にデジタル化された未来において、ロボットたちが物理的な新聞に頼ることは、直接的で物質的な情報とのつながりの喪失を際立たせている可能性がある。彼らが「情報に向き合う自らの身体性の再学習」を試みるという努力は、この点を強調している。 ラジオ放送とスポットライトによる視覚情報と聴覚情報の強制的な同期は、メディアコントロールと情報の受動的な消費に対する批判として解釈できる。ラジオとスポットライトによって、彼らが見て聞くものが同時に決定され、個々の解釈や独立した焦点のための余地が残されていないため、ロボットたちは「主体性を失った視覚と聴覚の関係性」を経験する。 貧困に苦しむロボットたちが登場する未来の設定は、技術の進歩と情報の管理によって悪化した潜在的な社会的不平等に関する社会的な解説を示唆している。「人機統一新聞」という統一されたアジアのブロックにおける貧困に苦しむロボットたちは、政治構造とその支配された情報(「人機統一新聞」)の普及が疎外されたグループに与える影響に対する批判を示唆している。支配的なメディアによって提示された製造された現実に対する抵抗の一形態として、ロボットによる新聞情報の再構成は、「ラディカルな芸術運動」を予兆している。これは、社会批判としての芸術の概念に関連している 。彼らが物理的な再構築という行為を通して「世に溢れる情報群の再統合」を試みることは、主体性を取り戻し、押し付けられた物語に挑戦したいという願望を示している。未来的な設定における時代遅れのメディア(新聞とラジオ)の使用は、過去の情報普及の時代への憧憬、または未来のデジタルメディアの儚く、操作される可能性のある性質の批判を象徴している可能性がある。高度な未来と古いテクノロジーへの依存とのコントラストは、メディアの周期的な性質と物理的な情報形式の永続的な関連性に関する解説を示唆しているかもしれない。           この投稿をInstagramで見る                       ɐɹnıɯ ıǝdɯıɥs(@_shimpeimiura)がシェアした投稿 私利私欲大曼荼羅 -2022- 「私利私欲大曼荼羅」は、本堂中央の阿弥陀如来立像を中心に8の字(無限大)を描くように配置されたディスプレイ、そして108の菊(陽)による生花と108の風車(陰)を施すことで、デジタルと自然の融合による大曼荼羅を構成した作品である 。大曼荼羅のディスプレイには、現代人の脳内に沸々と浮かび上がる108の欲望と刹那的な極楽の様が映し出され、108の菊(陽)による生花と108の風車(陰)は、空間全体に生と死の狭間の情景を重畳する。鑑賞者は、お鈴を鳴らすことで音色に応じてデジタル曼荼羅の絵面が変化することを知るとともに自身の欲との対峙することとなる。この時、本堂中央の阿弥陀如来立像を中心とした「私利私欲大曼荼羅」が完成する 。   伝統的な仏教寺院の環境の中にデジタルアートワークを配置することは、古代の精神的な実践と現代のデジタル文化との間の対話を生み出し、現代世界における欲望と悟りの進化を探求している可能性を示唆している。「阿弥陀如来立像」と現代的な欲望のデジタル表示の並置は、伝統的な精神的な目標と現代の物質主義的な追求との間の緊張を強調している。 仏教において重要な数である108の欲望の使用は、自然の要素を通して陰陽の象徴的な表現と並んで、人間の二面性と欲望とつかの間の幸福の周期的な性質に関する解説を示唆している。108という数字は仏教哲学において重要であり、しばしば世俗的な欲望を表す。菊(生命と太陽を表す陽)と風車(死と影を表す陰)の対照的な要素は、これらの欲望の無常と存在のサイクルを強調している。 インタラクティブな要素は、鈴を鳴らす行為とデジタル曼荼羅の変化を通して、鑑賞者自身の欲望に直面することを促し、精神的で内省的な体験において観察者と参加者の間の境界線を曖昧にしている。鈴を鳴らす行為は、鑑賞者の行動とアートワークの反応の間に直接的な因果関係を生み出す。この相互作用は、自己認識の瞬間と、自身の「私利私欲」との潜在的な対峙を強いる。 アートワークのタイトル「私利私欲大曼荼羅」は、仏教哲学の中心的なテーマである精神的な悟りと世俗的な欲望の間の緊張に直接的に向き合っている。このように作品を明示的に命名することで、作家は欲望の性質とその精神的な文脈における位置づけを探求するための概念的な枠組みを直ちに設定している。欲望を表現するためにデジタルディスプレイを使用することは、現代の意識と欲望に対するデジタルメディアの遍在的な影響を反映しており、伝統的な曼荼羅の図像に対する現代的な解釈を示唆している。伝統的な神々やシンボルの代わりに、デジタルディスプレイは現代的な欲望(物質的な所有物、つかの間の喜び)に関連する画像を表示し、現代の聴衆のために曼荼羅の視覚言語を更新している可能性がある。鑑賞者の相互作用(鈴を鳴らすこと)によって「私利私欲大曼荼羅」が完成することは、アートワークが静的ではなく、その意味を完全に実現するためには鑑賞者の参加が必要であることを意味し、自身の欲望に直面する上での個人的な責任を強調している。アートワークは、鑑賞者自身の欲望との関わりを反映する鏡となり、自己認識が精神的な内省の過程における重要なステップであることを示唆している。           この投稿をInstagramで見る                       ARTIFACT(@artifact_8)がシェアした投稿 III. 作品間の共通点 3つの作品を通して観察される共通のテーマは、東洋哲学の概念(道教、仏教、エネルギー、バランス、無常)への関与、芸術表現の重要な要素としてのテクノロジーの統合、没入型で概念主導の形式としてのインスタレーションアートの使用、そして感覚知覚とその限界または操作の探求である。 「Core」は八卦と太極を直接使用し、「私利私欲大曼荼羅」は曼荼羅と仏教の欲望のテーマを使用しており、「虚実の壁」でさえ、無常と情報の幻想的な性質というレンズを通して見ることができるように、すべての作品は異なるレンズと表現を通してではあるが、東洋哲学のアイデアとの明確な関与を示している。これは、これらの概念を現代的な文脈で探求するという意図的な芸術的選択を示唆している。テクノロジーは単なるツールではなく、各作品のメッセージの不可欠な部分であり、鑑賞者の体験と概念的な枠組みを形作っている。「Core」のフェナキストスコープとAIから、「虚実の壁」のラジオとスポットライト、「私利私欲大曼荼羅」のデジタルディスプレイまで、テクノロジーはアートワークと聴衆との対話とテーマの探求を仲介している。三つの作品はすべて、伝統的な芸術作品を超越し、鑑賞者がアートワークのアイデアに積極的に関わることを促す環境または体験を生み出すインスタレーションアートの広範な定義に適合している。各作品は、鑑賞者が空間を移動したり、相互作用したりすることを要求し、アートワークの物語または概念的な探求の一部となる。作品は、より深い理解を呼び起こしたり、現実と知覚の性質に疑問を呈したりするために、鑑賞者の感覚に挑戦したり、それらを操作したりする。「Core」は通常の感覚の限界を超えた精神的なイメージを生み出すことを目指し、「虚実の壁」は視覚的および聴覚的な入力を操作し、「私利私欲大曼荼羅」は音と視覚的な変化を使用して内省を促す。 これらの作品は、現代的なテクノロジーと芸術的実践を通して伝統的な東洋哲学のアイデアを再解釈することへの一貫した関心を示しており、文化的および時間的な文脈の橋渡しをしたいという願望を示唆している。多様なメディアにわたる東洋のテーマの繰り返しは、作家の創造的な探求の中心的な焦点を示している。鑑賞者のための没入型でインタラクティブな体験の作成に重点を置くことは、受動的な観察から、より関与した参加型の芸術鑑賞モデルへの移行を示唆している。「私利私欲大曼荼羅」のインタラクティブな要素と他の2つの作品の環境的な性質は、アートワークの展開に鑑賞者を直接関与させる意図的な戦略を示している。異なる枠組み(宇宙的、社会的、精神的)における情報、現実、欲望の批判的な検討は、現代世界における基本的な人間の経験とそれらを形作る力に対する広範な懸念を示している。多様なアプローチにもかかわらず、作品は集合的に人間の存在とその周囲の世界(自然界、社会環境、または内なる自己)との関係の核心的な側面に取り組んでいる。 IV. 芸術的および表現の系譜 これらの作品に影響を与えた芸術運動、伝統、そして哲学的概念を探る。 A. キネティック・アートとサウンド・アート 「Core」は、フェナキストスコープとダイナミックな光の投影の使用を通じて、キネティック・アートの系譜に明確に位置づけられる 。キネティック・アートは、19世紀末の印象派の画家たちの動きの表現への関心に起源を持ち、20世紀初頭には運動そのものを芸術の主要な要素とする芸術家たちが現れた 。ナウム・ガボやジャン・ティンゲリーといった芸術家たちは、機械的な動きや視覚的な動きの錯覚を利用して、時間と空間における芸術作品の新しい次元を探求した 。特にガボは、「キネティック・リズム」という言葉を用いて自身の作品を説明し、動きの芸術における重要な先駆者となった 。   サウンド・アートは、伝統的な音楽の境界を超え、音そのものを芸術表現の媒体とする分野である 。ラジオ・アートはサウンド・アートの初期の形態の一つであり、ラジオの放送技術を芸術的な目的で使用する 。ジョン・ケージは、音楽における音の概念を拡張し、偶然性や環境音を作品に取り入れるなど、サウンド・アートの発展に大きな影響を与えた 。音の哲学は、音を単なる聴覚的な現象としてではなく、存在そのものや現実のあり方を捉えるための重要な要素として捉える 。   「Core」は、AIによって生成され、リミックスされる音響風景を通じて、サウンド・アートの領域にも踏み込んでいる。「虚実の壁」は、ラジオを主要な聴覚要素として利用しており、ラジオ・アートとサウンド・インスタレーションの系譜に位置づけられる。作家のキネティック・アートとサウンド・アートの両方の伝統への関与は、多感覚体験と時間と空間における芸術の探求への現代的な関心を反映している。動く映像と音をダイナミックでインタラクティブな方法で組み合わせることで、作家はキネティック・アートとサウンド・アートの両方の遺産を基に構築し、鑑賞者のためのより豊かで没入型の体験を生み出している。 B. 現代美術における東洋哲学の原理 東洋哲学の原理は、現代美術に大きな影響を与えてきた 。道教の概念である八卦、太極、陰陽は、「Core」に直接的に組み込まれている 。仏教の無常、欲望、そして曼荼羅は、「私利私欲大曼荼羅」の中心的なテーマとなっている 。曼荼羅のモチーフを明示的に用いる芸術家たちをはじめ、多くの現代美術家がこれらの哲学からインスピレーションと概念的な枠組みを得ている 。   「Core」は道教の象徴を直接的に取り入れ、「私利私欲大曼荼羅」は仏教の概念とイメージを中心に展開し、「虚実の壁」の無常と現実の幻想的な性質というテーマでさえ仏教思想と共鳴している。作家は、現代美術において東洋哲学の伝統からインスピレーションと概念的な枠組みを見出す芸術家の継続的な系譜に貢献しており、現代美術におけるこれらのアイデアの永続的な関連性を示している。作家の作品全体にわたる東洋哲学のテーマの一貫した存在は、これらのアイデアへの深い関与と、現代の聴衆にその関連性を伝えたいという願望を示している。 C. 芸術表現におけるテクノロジーとデジタルメディア テクノロジーは、初期の機械装置(フェナキストスコープなど)から現代のAIやデジタルプロジェクションまで、芸術においてますます重要な役割を果たしている 。デジタルメディアは、インスタレーション・アートにおいて、インタラクティブで没入型の環境を作り出す可能性を広げている 。三つの作品はすべて、その実現と影響にテクノロジーを大きく依存しており、多様な技術的ツールを使いこなす作家の能力を示している。作家は、芸術的な可能性を広げ、現代の聴衆と関わる手段として、技術革新を受け入れる現代美術の状況の中に身を置いている。作品における様々なテクノロジーの洗練された使用は、これらのツールが芸術表現の概念的および感覚的な側面をどのように強化できるかの理解を示している。

先日、3月14日(金)に開催された「GAIEN-NISHI ART WEEKEND 2025 」のオープニングパーティにて、私も参加する ARTIFACT が演出を努めました。 オープニングパーティで活用した "π Generate System(円周率がアルキメデススパイラルに沿って無限に表示されていく演出)" のテクニカルノートを書いておきたいと思います。(どう実装したか、すぐに忘れるので個人的な備忘録でもあります) この投稿をInstagramで見る WALL_alternative(@wall_alternative)がシェアした投稿 そもそも GAIEN-NISHI ART WEEKEND 2025 とは? 「GAIEN-NISHI ART WEEKEND 2025」は、東京・西麻布に位置する「WALL_alternative」を拠点に、2025年3月14日(金)~16日(日)の3日間にわたり、西麻布・神宮前エリアを中心とした外苑西通り沿いのアートスペースをつなぐ試みです。会期中は、各アートスペースが連携し、展覧会のオープニングを同日に揃えたり、営業時間を延長したりすることで、来場者が複数のアートスペースを巡りやすい環境を提供します。この取り組みは、新たなアートスペースやアーティストとの出会いを促し、地域間の横のつながりを強化することで、東京のアートシーンをさらに盛り上げることを目的としており、昨年初開催されました(※1)。 WALL_alternativeは、現代アートを中心とした作品の展示・販売を行うアートギャラリーを軸に、カウンターバーを併設したオルタナティブ・スペースです。「多様な人々が有機的に混ざり合う夜のたまり場」(※2)をコンセプトに運営されており、常に気鋭の作家の作品と出会える、都内でも類を見ないカルチャースポットといえるでしょう。 今回、WALL_alternativeでの企画展「和を以て景を綴る」の展覧会オープニングとともに、Artist Collective「ARTIFACT」 が、オープニングパーティのプロデュースを担当しました。私はこのプロジェクトにおいて、映像演出のテクニカルおよび表現制作で参加しました。 ※1:GAIEN-NISHI ART WEEKEND2025 ※2:WALL_alternative 《SAN -讃-》 3月14日=3.14=π円周率(π)のように終わりなく続くアートのエネルギーが、 20のギャラリーをひとつの円(縁)で結んでいく。映像、植物、grrrdenとimusによるサウンドスケープ、Marikaによるコントーションを通じて、催しの成功を祈願する象徴的な空間を創り出す。 演出のタイトルは「《SAN -讃-》」。 「3月14日の開催 ✕ アートから生まれる無限のエネルギー ✕ 開催を讃える」の共通項として、「3.14 = π」、「3 = 讃」から、タイトルと演出の方向性をARTIFACTが企画しています(この意図せぬ発想力が、ARTIFACTの創発力) 円周率の数字をひたすらに描画する「π Generate System」について ここからは、本稿の主題であるテクニカルの解説です。 最終的なアウトプットとしては、①円周率の描画の背面に、②リアルタイムにDJの音に反応するリアルタイムオーディオ・ビジュアル映像を配置してプロジェクターを介して投影したいと思い、②については、ずっと育てている自作の Audio Visual System「音響共鳴人工現実装置(ここでは解説を割愛します)」を使えばサクッといけるので、①をどうするかが今回のお題です。 円周率の数字をひたすらに渦巻いて表示するにあたり、いくつかの選択肢がありました(下図参照) それぞれの方向で試してみて、結果が黄色の文字です。 ということで、今回は、久々に「Processing」で対応することに決定しました。 「Touchdesinger」でもおそらくうまい方法があったはずなのですが、私の実装だと1,000文字ほどでフレームレートが出なくなり、今回は選択肢から外すことにしました。 Processingでは、以下の方向性で実装しています。 事前に円周率の任意桁のデータを準備する。 各桁をアルキメデススパイラルの計算式に従って配置する 1秒毎に1文字ずつ表示する 「3」「1」「4」の数字だけ赤文字にする 「3」「1」「4」の数字が配置された際に円をアニメーションで描画する アルキメデススパイラル、全体を一定の時間で回転させる 各数字を微振動させる 文字を1文字ずつ表示させる際の文字の位置は、アルキメデスの螺旋の計算式を採用することで、常に全体が円状に見えるようにしています。対数螺旋を採用すると、蝸牛のように徐々に外に向かって螺旋が広がっていくことになるのですが、ルックが今回にはマッチしないと考え、アルキメデスの螺旋を採用しています。アルキメデススパイラルの極座標式は以下のようになります。\[r = a + b\theta\] ここで: r はスパイラルの半径 θ は角度(ラジアン) a はスパイラルの開始半径 b はスパイラルの間隔調整係数(スパイラルの成長率) この式をデカルト座標に変換すると:\[x = r \cos(\theta)\]\[y = r \sin(\theta)\] この x, y が、各文字を配置する螺旋の座標数値です。 また、1文字ずつ微振動させることで、生命観や脈動を非言語的に伝達することを狙っています。 以下が、前述の方向性を踏まえて採用したコードです(もしかしたら無駄な実装もあるかも) このコードを実行すると、Spout 経由で螺旋の描画を送信できます。 最終的には、Spout をTouchdesigner で受信して、背面映像とmixして最終的にプロジェクタで投影してます(下図を参照) 以上がテクニカルについてのざっくり紹介になります。 無限に渦巻く円周率と Quantum Vibes の一考察 無限に渦巻く円周率のイメージ、緻密に絡み合いながら生命力を宿す植物の祭壇、土着的な要素とインダストリアルな響きが交錯する音響空間、そして身体の極限を超越するコントーションのパフォーマンス。 この空間には、曖昧さと不確定性を意識的に取り込みながら、多層的な感覚が脈動している。 それは、特定のジャンルに回収されることを拒む「融合的な表現」であり、掴みどころのない魅力を内包する「流動的な体験」そのものでもある。 そして、「鑑賞」という行為を通じて、観る者の現実認識や内面的な意識に変容をもたらす、ダイナミズムすら内包されていた―。 俯瞰すると、この鑑賞空間は、量子論における観測者効果を想起させる。 すなわち、観る者の存在とその解釈が、初めて空間の「状態」を決定づけるという構造がここに息づいている。 作品は固定された意味や形を持たず、観る者ごとに異なる解釈が生じ、瞬間ごとに多層的な様相を浮かび上がらせる―まさに、観測の瞬間に確定する量子的な現象に通じるものがある。 このように、単純な定義や既存の枠組みを超え、不確定性や多面性を積極的に肯定することで、その空間は、単なる表現を超えて社会的な機能をも獲得した。 その場に生まれた空間自体が、多様な解釈を誘発し、観る者と共に変容し続ける。 このような鑑賞空間作りは、表現者にとって極めて大きな挑戦であり、同時に深い意義を持つ試みだったといえるではないだろうか。 Quantum Vibes が、意図せぬ方向で起動し始めている。 ~イベント中の個人的なメモより~

   -1分、-1時間、-1日、-1週間、-1ヶ月、-1年、あまりにも世界の変化が目まぐるしいが故に 「-1 〇〇」に過ごしていた生活環境、アクセスしていた情報環境、そして、考えていたことの根底が揺らいでおり、ここ最近は、妙な脳内フォグが立ち込めている。    情報技術を手法として選択して何かを創ることに生きがいを見出している自分にとっては創ったものが情報空間に消失していく空虚さを強く実感しており、根底以外に基底をも意識しないと脳と身体が乖離してゆらゆらと時間軸のみが進行する状態で、いまさら始まったことではないが、物理現実を痕跡無く浮遊するだけになってしまうのではないか、手元のスマートフォンの画面に表示されている情報は幻覚なのではないか、この話題は、-n 秒の世界と+n秒の世界を隔てる出来事なのではないかと、謎の脅迫観念にも似たような疑問と、気の抜けない状態、論拠や寂念の不足が次から次へと湧いて出てくるのである。 と、数日だけ思っていた。    冷静に考えると、言葉にならない感動を言語で切り取ることができさえすれば、あとは計算機の力を見方にどこまでも表現を拡張できる時代の到来であり、表現者にとっては、「これまでは手に届かなかったあの作り方」「細部に到達するまでの土台づくり」のような点において、時間軸を圧縮できる恩恵は必ず受け取ることができると考えている。    最近、触ってみた主に映像表現に使えるであろう、機械学習、DeepLearning による手法、ツールのうち、個人的に多用するであろうと思っているのが以下の2つ(これもまた+1〇〇後には、-1〇〇では

2023年の年末から2024年の年初の休み中は、本当にダラダラした. 休みの間には、デジタル機器が身体から離れることはなく、むしろ、Quest3などで遊んだりなどテクノロジー楽観主義に見を委ね、現実にデジタル情報が重畳されたすぐそこにある未来に想いを馳せる時間を過ごしていた. さて、2023年は、様々な方々やメディアが総括するように「生成AI」という言葉が、またたく間に広がり、生成AIとの関係がどうだとか、「共生」や「共創」と言っておけば良いだろうという風潮が何だか溢れかえっていた年だったように思う.表現の均一化、創造性を問う議論、人と機械の対立構造など、泳がせておくには、未だに議論が多すぎるとの認識はありつつも、生成AIは気づいたら作業の隣に存在しており、我々の活動を伴走している. それは視覚表現の巧みさだけではなく、コンセプトやビジョンなど、指示者の指示によっては、より高度で高級な知的活動をも伴走できる存在としてネット空間に鎮座しており、それらに人類が翻弄されるという、新たな時代を迎えたようにも思える. ところで、ネットにアクセスするだけで、虚実に関わらず、”絶え間なく降り注ぐイメージ”が視覚に流れ込み、溢れかえるこの状況は、人間の生物としての特性として(と言って良いのかは定かでは無いが)、視覚優位の我々にとって、現実への認識を負の方向へと変容させる最大の要因になっている可能性がある. 例えば、2023/11/12の日経紙面で報道された「ガザ衝突、偽画像が拡散 生成AIで作成か」のタイトルのニュース(1)のように、偽情報が世論を煽り対立が過激化されるような事例が年々増えている. 偽情報による台湾総統選では既に問題になっているが、これはおそらく今年のアメリカ大統領・議会選挙でも更に加速するのは容易に予想できるだろう. さらに、厄介なことに、偽情報が蔓延すると、真情報を偽情報だと言い張る輩が現れる. 昨年4月、南インドのタミル・ナードゥ州の政治家が、自分の所属する政党が30億ドルの横領に関わっているとして党を糾弾する内容の音声が流出したそうだが(2)、当該の政治家はこれを「機械によって生成されている」としたが、実際には本物の音声だったようだ.このように本物の情報を偽と見なされてしまうことは「嘘つきの配当(liar’s divident)」と呼ばれており、2024年以降、さらにこれが加速すると懸念されている.自分のようなタイプの人間は、偽情報と同様に真の情報に対しても疑心暗鬼になってしまい、自身の内面にしか興味が無くなるということを危惧している. 「情報」とどう向き合うべきなのか、情報リテラシーという言葉では対処できない時代の訪れに、行動と思考の源泉となるは「つくって考えること」しか無いと思ったりしている. こんなことを書きながら、ぼんやり思うのは、「つくって考えること」については、これまで以上に、文脈(Context)と身体性(Embodiment)に鋭敏になることを大切にしたい. この2つに関しては、日々の情報収集と表現活動の両者に関連するのと、前段で触れた真偽が破綻した状況への応答でもあるのだが、 情報収集×文脈の視点については、網羅的に専門家になるということではなく、教養的なものに関しては、情報の前後をふんわり知ること、伝わる情報に編集できることを意識しようかと. 表現活動×文脈に関しては、今更ながらだが、なんとなくこれまでの創作で分かってきたこともあるので、表現、芸術の「史」の延長に位置づけられるように思考を整理していこうと思う. 情報収集×身体性については、可能な限り情報摂取に、何らか身体的経験を取り入れることを大事にしたい.手書き、肌触り.自分の足で経験して口で伝える. 表現活動×身体性については、表現のコンセプトの一部に常に取り入れたく、記号化可能な身体と社会構造の変遷の相関の理解と未知なる記号化された身体性を描くことが1つ(たぶん何言っているかわからないと思うが).もう1つが、A/V表現における身体想起の表現方法を考えたい. ざっと、今年は、こんな感じだろうかね. ※1:「ガザ衝突、偽画像が拡散 生成AIで作成か 100万回以上閲覧の投稿20件 SNSで対立煽る」日本経済新聞、2023年11月12日 ※2:「An Indian politician says scandalous audio clips are AI deepfakes. We had them tested」rest of world、5 JULY 2023 • CHENNAI, INDIA.

俳句というものが江戸時代の人びとの場合、記録の枠割を持っていたのじゃないかと思います。とくに旅をした場合、行った先で一句書きとめておく。絵ごころがある人だとスケッチを描くわけですが、俳句にはそういう記録性という実用機能があって、あとでその俳句を見れば旅先の情景なり体験なりを思い出すインデックスになる。いまの日本人は旅行に行くときにはかならずカメラをぶらさげていって、行く先々でパチパチ撮っていますね。あれは昔の人の俳句のかわりだろうと思うんです。 明治メディア考 (エナジー対話)  1979/4/1 前田愛の発言 これは、先日、下北沢のほん吉という古本屋で500円で購入した、小冊子の古書「エナジー対話・明治メディア考」での日本を代表する評論家前田愛と加藤秀俊の対話の一節である。 この一節の通り、カメラと俳句には類似構造があって、まさに写真は現代の俳句だ。 カメラは単純な光学機械に過ぎないが、写真には人の主情が混じっており、俳句における時間軸を決定する季語は、写真においては、例えば、柿の木とその向こうの夕暮れであり、桜の花が散る様子、月が雲に隠れる瞬間など、短い時間の中での美しさや哀しさである。 テキストと画像。異なるメディアではあるものの本質的には同じであり、俳句は詠むものがその場で捉えた情景のスチール写真なのだ。 日本文化特有の表現として面白い点の1つが、こういった離散的に時間を切り取るところにある。 日本の伝統的な詩や文学には、簡潔に情景や情感を伝える技法が求められ、俳句や川柳など、少ない言葉で深い意味を持たせる詩的表現が好まれる背景には、省略の技法や間(ま)という概念がその根底にはある。 さらに視野を広げて、俳句以外にも、目を向けてみると、能における鼓のポンと入る音、歌舞伎における見得などにも共通項がある。 視聴覚を使って、空間と時間を一瞬、停止させることで、その瞬間のドラマや美が際立てられる。これは、連続する時間の中で一つの瞬間を切り取り、観客の注意をその点に集中させる技法とも言える。 このような感性や価値観は、日本特有の日常生活や自然との関わりの中で培われ、伝統的な芸術や文学においても色濃く反映されていることが分かる。 今日におけるニューメディアを活用した表現方法にも継承されるべきであり、制作において頭の片隅に置いておきたいと思った。

2022年もあと2日。 今年も皆さん大変お世話になりました。 現業も個人制作も2021年よりも新しい挑戦の機会に恵まれて、今、振り返ると本当に挑戦してよかったと思える1年だったと思います。 正直、体力も精神的にも結構ギリギリな時もありましたが、やり切った後の充実感は何ものにも代え難いっすね。 さて、そんな1年の活動をドライブさせてくれた、個人的なベストバイや音楽等をなんとなく書き綴りつつ、年末のご挨拶とさせて頂きます。 制作のお供関連 RTX4090 待ち望んだNVIDIA 40番台です。買う前は、正直、コスパ悪いのでは?と思ってましたが、やっぱり買ってよかったです。 Unity、UnrealEngine、Resolumeの同時立ち上げも全然余裕だし、今のところ何も面倒なことを気にせずに制作に集中できる環境を手に入れることができました。3090 Ti との性能差が1.5倍程度(FF14ベンチマーク)、Blenderのベンチマークでも1.6倍〜2倍とのことだったのですが、実際に使ってみて確かに快適です。2023年の制作も確実に手助けしてくれるでしょう。本当は、Tiシリーズが出るまで買うのを迷ってたのですが、思い切って買ってしまいました。 Akai Professional USB MIDIコントローラー お次は、6月の Hyper Geek でも使った AKAI の MIDIコン。正直、これ1つあればもう何もいらないと思います。Resolumeでも標準で認識してくれるので、接続後の Controller mapping も楽。まだまだ、使い倒せてないけれども、来年以降もこやつとともに映像パフォーマンスなど頑張ります。2023年は、Resolumeの部分をTouchDesignerに置き換えてパイプラインの革新もしたいなどやりたいことが満載・・ Appleシリコン搭載Macモデル用Touch ID搭載Magic Keyboard HHKB使ってたのですが、Apple純正キーボードに切り替えました。自分の場合、RTX4090搭載のWin機でkeymappingしてストレス無く使えてます。Apple のキーボードのペタペタ感が個人的には作業捗ることを改めて認識。キーボードは収まるまでに何種類か試してたのですが、ようやくこのキーボードに収まりました。テンキー付のため、結構、横長。割と幅のあるデスクだと使いやすいです。 機材関連はこんな感じで、次は作業に欠かせない仕事のお供的な存在達を1つ紹介すると・・ AESOP Sarashina Aromatique Incense 作業する際にお香が欠かせなくて、今年もいろんな種類を試してたのですが、ベストバイは「Aesop Sarashina Aromatique Incense」でした。 ドライでウッディなサンダルウッドと、温かく心地よいスパイスが特徴的で、優しい香りが組み紐のように繊細に伸びて広がるインセンスで、作業の集中に欠かせない香りになってます。まあまあお高いので大事に使ってます。 Music / 音楽 A View of U - Machinedrum 深夜帯の制作作業の時にめっちゃ集中できるBPM。奇才Machinedrumの9作目のアルバム。IDM、UKレイブ、ジャングル、フットワーク、ベース・ミュージックとUSのヒップホップやクラブミュージックの融合が神がかってる作品。横アリの映像制作でほぼ3徹状態だった時にずっと聴いてて捗りました。 Continua - Nosaj Thing ケンドリック・ラマーやチャンス・ザ・ラッパーのプロデュースでも知られるLAの重要プロデューサー、Nosaj の最新アルバム。Nosajはライゾマの作品で存在を知って、そこからずっと聴いてる。今回のアルバムは、HYUKOHとのコラボが個人的にかなり熱かった

世界は変化している.21世紀を迎えた人類は,利便性に堕してバランスを逸したモダニズムに,ようやくブレーキをかけつつある.そして,現在,私達の生活空間は,モバイルに象徴されるメディア技術によって,ヴァーチャルなインフラストラクチャーと接続し,新たなリアルを獲得した.しかし,この生活圏は,あまりにも可塑性が高く,過剰に生成し,暴走しがちなのだ.私達は,見えない時空間を再構築する,メディア表現を必要としている.こうした事態に,いま私たちが掲げるキーワードは,バランスの復権だ.人類最古の発明のひとつである車輪にペダルが装着されたのは,19世紀である.私たちは,モダニズムのはじめに立ち戻り,ハイ・テクノロジーと身体が駆動してきたバランス感覚に着目する.自転車は,理性と野生,都市と自然,ヴァーチャルとリアルを接続し,シンプルなバランスの循環を見出す指針となるだろう.「クリティカル・サイクリング宣言」より,情報科学芸術大学大学院(IAMAS)赤松正行教授 様々なテクノロジーを活用して仕事や制作をする私にとって「お前は,テクノロジーに使役されていないか?」は,タスクに追われている時こそ,冷静に自分自身に投げかけている大事な問いである. 上記は,IAMASの赤松教授を中心に行われている「クリティカル・サイクリング宣言」の引用である。キーワードである「バランスの復権」は,ここ数年の趨勢を踏まえると頭の片隅に置いておきたい言葉の一つである. 我々は火を手に入れた時から,テクノロジーととも共生し自身の能力を拡張させてきた。一方で、現代においては、共生というよりテクノロジーに依存しているという状態の方が肌感がある人が多いのではないだろうか. テクノロジーを捨てて,テクノロジーに頼らない生活を強要する話でもなく,あくまでバランス良く共生するにはどうすればいいんだろうかとぼんやり考えている. テクノロジーに依存し,テクノロジーに操作され,テクノロジーに隷属していないか. テクノロジーとのちょうど良い関係ってなんだろうか. 人が本来の人間性を失うことなく,創造性を最大限に発揮するためにはどのようにテクノロジーと付き合っていけば良いのか. こんな疑問とともに,今更ながら、振り返り始めたのが,イリイチの「コンヴィヴィアル」という概念である. コンヴィヴィアルそのものは,特に真新しい概念でもないが,最近,様々な人が議論に取り挙げているなと思っていた. 完全に脳の隅っこに置き去りにしていたのだが,ちゃんと調べてみると,確かに大事な視点は書いてある、という印象であった. コンヴィヴィアルってなんぞやと思う方が大半だと思うので,イリイチが自身の著書「コンヴィヴィアリティのための道具」の内容を備忘としてまとめておきたい. ブラックボックス化された道具が我々の創造的な主体性を退化させる イリイチは,「人間は人間が自ら生み出した技術や制度等の道具に奴隷されている」として,行き過ぎた産業文明を批判している.そして,人間が本来持つ人間性を損なうことなく,他者や自然との関係のなかで自由を享受し,創造性を最大限発揮しながら,共に生きるためのものでなければならないと指摘した.そして,これを「コンヴィヴィアル(convivial)」という言葉で表した.最もコンヴィヴィアルでは無い状態とは,「人間が道具に依存し,道具に操作され,道具に奴隷している状態」である. では,コンヴィヴィアルなテクノロジーとは? イリイチは,その最もわかりやすい例として,「自転車」を挙げている.自転車は人間が主体性を持ちながら,人間の移動能力をエンパワーしてくれる道具の代表例といってもいいだろう. さて,周りや自身の生活を鑑みてみよう.現状,我々は様々なテクノロジーに囲まれ,その恩恵を受けて生活をしている.例えば,たった今,私は,blog ツールを使って,本件について備忘を残しているところであるが,このツールの裏側の仕組みなど全く気にすることなく,文章を書くことができている.このように,ブラックボックス化された道具のおかげで,我々は不自由を感じることなく創造的な活動をできているのだ.一方,不自由を感じなくなればなるほど,ここをこうしたい,もっと別のものがあればいいのになどの,創造的な発想が生まれなくなる.言い換えると,自らが,新しい道具を作り出そうとする主体性が失われていくのであるとイリイチは指摘する. ここで疑問が湧く. では,「人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具」と「人間から主体性を奪い奴隷させてしまう支配的な道具」を分けるものは一体何なのか? 二つの分水嶺と分水嶺を超えて行き過ぎていることを見極めるためには イリイチは,「人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具」と「人間から主体性を奪い奴隷させてしまう支配的な道具」を分けるものが,1つの分岐点ではなく,2つの分水嶺であると述べている. ここについては抽象的な議論であることは否めないが,ある道具を使う中で,ある1つの分かれ道があるのではなく,その道具が人間の能力を拡張してくれるだけの力を持つに至る第1の分水嶺と,それがどこかで力を持ちすぎて,人間から主体性を奪い,人間を操作し,依存,奴隷させてしまう行き過ぎた第2の分水嶺の2つの分水嶺であるとした.不足と過剰の間で,適度なバランスを自らが主体的に保つことが重要なのである. では,道具そのものが持つ力が「第二の分水嶺」を超えて行き過ぎているかどうかを見極める基準はどこにあるのか? この問いに対して,イリイチは6つの視点を挙げており,それらの多次元的なバランス(Multiple Balance)が保たれているかどうかが重要であるとしている. 多元的なバランス(Multiple Balance) を確認するための5つの視点 生物学的退化(Biological Degradation) 「人間と自然環境とのバランスが失われること」である.過剰な道具は,人間を自然環境から遠ざけ,生物として自然環境の中で生きる力を失わせていく. 根源的独占(Radical Monopoly) 過剰な道具はその道具の他に変わるものがない状態を生み,人間をその道具無しには生きていけなくしてしまう.それが「根源的独占」である.これはテクノロジーだけではなく,制度やシステムの過剰な独占も射程に入るとしている.風呂にスマホを持ち込むなどの行動はかなり,典型的な例として挙げられるだろう. 過剰な計画(Overprogramming) 根源的な独占が進むと,人間はどの道具無しではいられない依存状態に陥るだけではなく,予め予定されたルールや計画に従うことしかできなくなってしまうのである.効率の観点で考えると計画やルールは重要だが,過剰な効率化は,人間の主体性を大きく奪い,思考停止させてしまう.「詩的能力(世界にその個人の意味を与える能力)」を決定的に麻痺させるのだ. 二極化(Polarization) このような根源的独占や過剰な計画が進むと,独占する側とされる側,計画する側とされる側の「二極化」した社会構造を生む.無自覚なままに独占され計画された道具に依存し,人間が本来持っている主体性が奪われていくのだ. 陳腐化(Obsolescence) 道具は人間によって更新を繰り返していく.より早く,より効率的にといった背景で,既存の道具は次々と古いものとして必要以上に切り捨てられていないか? フラストレーション(Frustration) 道具がちょうど良い範囲を逸脱して,第二の分水嶺を超えて上記の5つが顕になる前触れは,個人の生活の中でのfrustrationとして現れるはずだと述べている.違和感を敏感に察知するためのアンテナを持つことが重要であり,アンテナを敏感にすることで,上記の脅威を早期発見することができるとイリイチは言う. バランスはどのようにして取り戻すのか 人間と道具のバランスを取り戻すための方法として,イリイチは「科学の非神話化」という考え方を残している.これは,言い換えるとテクノロジーをブラックボックス化しないということである. ブラックボックス化されたテクノロジーは我々をテクノロジーへの妄信や不信を招き,自ら考え判断し意思決定する能力を徐々に奪っていく.極端な例だが,物理学者のリチャード・ファインマンは「What I Cannot Create, I Do Not Understand.」と言ったように、分かることとつくることの両輪で考えている状態が人間と道具のバランスが保たれている,つまり,人と道具の主従が理想の状態といえるのではないだろうか. とは言えども,これはそう簡単なことではない. つくるまではいかなくても,つくるという状態の根底にある「なんで世界はこうなっていないのだろう・・」や「こうあればいいのにな・・」といった、ちょっとした違和感や願望を持つことぐらいで良いのではないか,もいうのが私の意見である. これからもテクノロジーは目まぐるしく変化していく,もちろん何もしなくてもテクノロジーと共に生きてはいけるが,気づかぬ間に現時点の自身はテクノロジーにより制され,自らも意図せぬ状態へと変わってしまっていることもあるだろう(分かりやすいのがSNS中毒など) ガンジーの言葉の「世界」を「テクノロジー」と置き換えて参照すると,テクノロジーによって自分が変えられないようにするために,自ら手を動かすことはやめてはいけないと感じる.そして,それができる方々は是非,その心を持ち続けてほしい. あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、 世界によって自分が変えられないようにするためである。Mahatma Gandhi 日々の生活の中で,自分自身の認識と世界とのギャップを見過ごさずに,自らが積極的に世界に関わり,時には,つくるという手段を通して世界に問いを投げかける.このような態度を保ち続けたいと改めて思ったのであった.

思考ばかりで知識で固めすぎると,手や足が全く動かなくてなるので,多少は向こう見ずでも手や足を動かす方が良いと思っているけど、それがどうしてもできないならば今やっていることはまるで意味の無い時間の無駄だと思うのです. その初速として「思い込む力」というのはある意味すごく Gifted で本当に大事にした方が良い. 普段の生活で隙間時間がある度にそのことばかり考えているような対象があるのであれば,それはとても向いていることなので,何を言われようともやり続けてほしいですね. と思ったここ数日でした。

あけましておめでとうございます。2022年もよろしくお願い致します。 今年は、とにかく健康第一でいきたいと思います。 ― 最近、頭に浮かぶイメージを形にするために、主に使っている Unity のみでは厳しいと感じており、あれこれリサーチしていたら、以下のツールで表現実験をする必要が出てきました。 とにかく、本業との両立のために、学習サイクルにドライブをかけたいです。 Unreal EngineHoudiniVDMX上記の3ツールを掛け合わせたパイプライン構築 あとは、自身が影響を受けている事象や物事(芸術に限らず、技術や音楽、景観などなど)について、注意深く観察するだけではなく、コンテキストやルーツを知り、自分の糧にできるようにしたいですね。 2022年も、感謝の気持ちを忘れずに駆け抜けます。 どうでもいいのですが、子供の頃に妄想していた2022年は車が空中を飛んでいたし、街はもっとハイテクだし、世界はもっと大混乱していると思っていたけども、全然違った。

2021年も残すところあと僅かになりました. 本業,個人制作活動と,皆様には大変お世話になりました. 幸いにも今年は沢山の方々と共同制作できる機会に恵まれまして刺激的な1年を過ごすことができました. 2022年も,手を止めずに全力疾走していきますので,引き続き,よろしくお願い致します. https://youtu.be/48xmyP40GWU