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特に渋谷エリアなんかを散歩していると、誰かが描いたグラフィティを目にする。 単なる違法行為としてではなく、時には芸術として語られるグラフィティは、一体、どういった変遷で醸成されてきたカルチャーなのか、個人的に気になったのでリサーチしてみた。 グラフィティは、元々、イタリア語の graff(落書き)が語源で、この言葉にはネガティブな意味合いが込められているらしい。グラティフィライター界隈では、グラフィティではなく、"ライティング"と呼ぶらしい。私も、カルチャーとしてのグラフィティに敬意を込めて、ライティングと呼ぶことにする―。早速だが、ライティング文化の初動から黄金期までの系譜を一気に振り返ってみよう。  ライティング文化の激動期/The history of writing ライティング文化の初動については、いくつかの説があるのだが、マンハッタンのワシントン・ハイツ、西204丁目に住んでいたジュリオという名の少年が「JULIO204」というタグを近所の壁に書き始めたのが、その始まりであるとされている。 同時期に「JULIO204」の20ブロック先に住んでいた、ギリシャ系の少年、ディミトリウスが、ジュリオのタグを目にして自身のタグを書き始めた。 彼は、後に世界初のグラフィティライターと呼ばれることとなる Taki183 だ。 メッセンジャーであった彼は誰よりも都市全域(オールシティ)を駆け巡り、メディア関係者が多いエリアへ「自分の名前+住んでいる番地」を意味する「Taki183」というタグを書き始める。 69年のことであった。  70年代に突入すると、New York Timesが、Taki183のインタビューを初めて紙面へ掲載する。New York Timesの波及力により、Taki183は「最初の有名なライター」として名を知られるようになった。 Taki183の登場が、NYのライティングブームの火種となり、ライターは激増していった。ライター達はテレビや映画の撮影で頻繁に使用される場所や観光スポットを中心に、自らの名前を公共空間へ描くことで有名性の獲得を競うようになる。  そんな彼らにとって最も魅力的なメディアは「地下鉄」であった。地下ネットワークを日々駆け巡る地下鉄というメディアは、都市全域(オールシティ)へ自身の名前を拡散させるための触媒となり、有名性の獲得とオリジナルスタイルの確立に向けて、ライター達によるスタイルの競争は激化していく。 さらに、”Wild Style(1983)”や、”Style Wards(1983)"などのライティング文化を題材とした映画が公演されると、ライティング文化は、全米全土のみならず、ヨーロッパや日本にも伝搬していった。 この頃、ライターは「ヴァンダリズム型(Bomber:ボマー)」と「アーティスト型(Piecer:ピーサー)」に二極化していく。地下鉄でのライティングから登場した”Keith Haring(キース・ヘリング)”や、今もなお、レジェンドとしてストリートカルチャーへの影響が大きい”Futura2000(フューチュラ2000)”など、ギャラリーとの接点があった一部のライター達のみが、ライティングの媒体を都市からキャンバス(アート)へと移行していった。  80年代の中頃には、ライティング行為そのものが風紀を乱すものであるという認識は社会の共通認識となっていた。この無秩序と戦うためにMTAのロバート・アイリーらが警察官5000人を投入して、割れ窓理論[※]を応用した「クリーン車両プログラム」を実行に移す。 各地下鉄ラインの終点で、車両に1つでもグラフィティが発見された場合、そのグラフィティが完全に消去されるまで走らせないというシンプルなものであったが、これが功を奏し、90年代前後には、地下鉄を中心としたライティングは衰勢していった。  ※ブロークンウインドウ理論ともいい、小さな不正を徹底的に正すことで、大きな不正を防ぐことができるという環境犯罪学の理論 Writing culture first started in New York in the 60s. The first waves occurred in the 70s and it reached its golden age which lasted until