身体性 - SHIMPEI MIURA
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二日酔いの中、Art Collective について考えている。 それは、単なる共同制作体ではない。重要なのは「個」同士が混線しながらも消滅せず、ひとつの情報的身体として再編されていくプロセスそのものである。私は、このプロセスそのものを「幽体するコレクティブ」と呼び、その性質を考えていきたい。 個から集合体への転位 芸術実践における「Collective」は、もはや「複数の人間による協働体」の定義を超越した。個でありながら、群であるような中間的な存在状態であるコレクティブの様相は、個が外の個と混線することで、他の存在へと変化していく過程であり、固定的なアイデンティティを持たない流動する運動体である。 その時、個々の作家性は消滅するのではなく、分散的かつ幽体的に再配置される。 幽体するコレクティブ / 情報的身体の生成とは 「幽体」とは、物質的な実体を欠きながらも、活動において確かに作用する情報的身体による運動体である。 それは霊的でも幻想的でもなく、情報環境と実空間のあいだに広がる海の中で、実際に生成される身体のかたちを指す。 個とは、固定された単位ではなく、関係のなかで常に生成の途中にある存在である。 彫刻が最初から形を持たないように、素材・手・時間といった多様な力が交わる過程で、徐々に形が立ち上がるように、人間の「個」もまた、環境・他者・情報との相互作用のプロセスのなかで、輪郭を生成していく過程にある。 この相互作用の中にある個を「個(t−1)」とするならば、そのプロセスの連続によって「個(t)」へと分化が進む。すなわち個体とは、常に変化する差分的な存在であり、過程そのものに内在する「エネルギーの流れ」を媒介しながら次の自己を生成する。 この「過程の中で生じるエネルギーの塊」こそ、コレクティブが持つ本質的な意義である。 そこでは、個(t−1)と個(t)のあいだに前個体的な潜在力が発生し、複数の主体がその潜在力を共有しながら、互いの境界を溶かし合う。 この未分化なエネルギー場において、思考・感覚・身体が混線し、新たな形式へと変換されていく。 その運動そのものが、「幽体するコレクティブ」の実体である。 したがって、コレクティブとは単に複数人で構成される群や組織ではない。 むしろ、個がいったんほどけ、再び形を結び直すための場であり、その結び目として立ち現れる「かたち」を取り出す行為そのものが、芸術的実践としてのコレクティブの核心にある。 この「ほどけ」と「結び」の運動の中で、情報的な身体=幽体は絶えず生成し続ける。 それは、可視的な肉体を超え、他者や環境との接続を通して形成される生きたネットワーク的身体であり、この流動的身体の呼吸こそが、コレクティブという存在を成立させている。 情報社会における新しい「生」のかたち 「幽体するコレクティブ」とは、死後の霊的残像ではなく、情報社会において新たに意図せず発明された「生」のかたちの1つである。 そこでは、身体はもはや閉じた器官ではない。 他者や環境との接続によって絶えず変容する開かれた情報的なものとして存在する。 感覚は分散し、情報の海を漂いながら、その時、その時に他者と共鳴することで、時宜によって結晶する。 その結晶化の過程で、生きることやつながることはもはや区別無く、生とは常に他者を介して生成されるプロセスそのものとして立ち現れるのである。 それは、ネットワークの中を漂う情報の微粒子が、一瞬の秩序を求め、時折、集合的ではありつつも、孤独を伴い浮遊する。そのような、きわめて現代的な「生」のかたちなのである。

2023年の年末から2024年の年初の休み中は、本当にダラダラした. 休みの間には、デジタル機器が身体から離れることはなく、むしろ、Quest3などで遊んだりなどテクノロジー楽観主義に見を委ね、現実にデジタル情報が重畳されたすぐそこにある未来に想いを馳せる時間を過ごしていた. さて、2023年は、様々な方々やメディアが総括するように「生成AI」という言葉が、またたく間に広がり、生成AIとの関係がどうだとか、「共生」や「共創」と言っておけば良いだろうという風潮が何だか溢れかえっていた年だったように思う.表現の均一化、創造性を問う議論、人と機械の対立構造など、泳がせておくには、未だに議論が多すぎるとの認識はありつつも、生成AIは気づいたら作業の隣に存在しており、我々の活動を伴走している. それは視覚表現の巧みさだけではなく、コンセプトやビジョンなど、指示者の指示によっては、より高度で高級な知的活動をも伴走できる存在としてネット空間に鎮座しており、それらに人類が翻弄されるという、新たな時代を迎えたようにも思える. ところで、ネットにアクセスするだけで、虚実に関わらず、”絶え間なく降り注ぐイメージ”が視覚に流れ込み、溢れかえるこの状況は、人間の生物としての特性として(と言って良いのかは定かでは無いが)、視覚優位の我々にとって、現実への認識を負の方向へと変容させる最大の要因になっている可能性がある. 例えば、2023/11/12の日経紙面で報道された「ガザ衝突、偽画像が拡散 生成AIで作成か」のタイトルのニュース(1)のように、偽情報が世論を煽り対立が過激化されるような事例が年々増えている. 偽情報による台湾総統選では既に問題になっているが、これはおそらく今年のアメリカ大統領・議会選挙でも更に加速するのは容易に予想できるだろう. さらに、厄介なことに、偽情報が蔓延すると、真情報を偽情報だと言い張る輩が現れる. 昨年4月、南インドのタミル・ナードゥ州の政治家が、自分の所属する政党が30億ドルの横領に関わっているとして党を糾弾する内容の音声が流出したそうだが(2)、当該の政治家はこれを「機械によって生成されている」としたが、実際には本物の音声だったようだ.このように本物の情報を偽と見なされてしまうことは「嘘つきの配当(liar’s divident)」と呼ばれており、2024年以降、さらにこれが加速すると懸念されている.自分のようなタイプの人間は、偽情報と同様に真の情報に対しても疑心暗鬼になってしまい、自身の内面にしか興味が無くなるということを危惧している. 「情報」とどう向き合うべきなのか、情報リテラシーという言葉では対処できない時代の訪れに、行動と思考の源泉となるは「つくって考えること」しか無いと思ったりしている. こんなことを書きながら、ぼんやり思うのは、「つくって考えること」については、これまで以上に、文脈(Context)と身体性(Embodiment)に鋭敏になることを大切にしたい. この2つに関しては、日々の情報収集と表現活動の両者に関連するのと、前段で触れた真偽が破綻した状況への応答でもあるのだが、 情報収集×文脈の視点については、網羅的に専門家になるということではなく、教養的なものに関しては、情報の前後をふんわり知ること、伝わる情報に編集できることを意識しようかと. 表現活動×文脈に関しては、今更ながらだが、なんとなくこれまでの創作で分かってきたこともあるので、表現、芸術の「史」の延長に位置づけられるように思考を整理していこうと思う. 情報収集×身体性については、可能な限り情報摂取に、何らか身体的経験を取り入れることを大事にしたい.手書き、肌触り.自分の足で経験して口で伝える. 表現活動×身体性については、表現のコンセプトの一部に常に取り入れたく、記号化可能な身体と社会構造の変遷の相関の理解と未知なる記号化された身体性を描くことが1つ(たぶん何言っているかわからないと思うが).もう1つが、A/V表現における身体想起の表現方法を考えたい. ざっと、今年は、こんな感じだろうかね. ※1:「ガザ衝突、偽画像が拡散 生成AIで作成か 100万回以上閲覧の投稿20件 SNSで対立煽る」日本経済新聞、2023年11月12日 ※2:「An Indian politician says scandalous audio clips are AI deepfakes. We had them tested」rest of world、5 JULY 2023 • CHENNAI, INDIA.