
1960年代におけるRobert RauschenbergとBilly Kluverによる芸術とテクノロジーの実験(E.A.T.)
架け橋を築く – 1960年代における芸術とテクノロジーの協働の創世記
1960年代は、社会、文化、テクノロジーにおいて大きな変化が見られた時代であり、芸術とテクノロジーの交差点は目覚ましい発展を遂げた。この変革期において、現代美術において革新的な素材と主題へのアプローチで知られるロバート・ラウシェンバーグと、芸術的な協働に対する先見の明を持っていたベル電話研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァーという2人の重要な人物が登場した。
彼らの初期の協働と共有された衝動は、Experiments in Art and Technology, E.A.T.の設立へとつながる。
ラウシェンバーグの初期の「コンバイン」作品群は、ラジオや扇風機、電灯、時計といった実用的な電化製品を組み込むことで、テクノロジーを芸術に統合することへの関心をすでに示していた。音、動き、光、そして時間の経過を文字通り作品に取り込むという彼の試みは、伝統的な芸術の境界を押し広げるものであった。
一方、クルーヴァーは、純粋な科学的探求に満足せず、ニューヨークで隆盛していたポップアート、ミニマリズム、ハプニングといった芸術運動に関心を抱いていた。クルーヴァーは、芸術家とエンジニアが対等な立場で創造的なプロセスに積極的に参加するという、芸術とテクノロジーの統合の可能性を誰よりも早く認識していた。1960年にジャン・ティンゲリーと共同制作した「ニューヨークへのオマージュ」でのクルーヴァーの最初の協働は、この方向への第一歩であり、1966年のパフォーマンスシリーズ「9 evenings : theatre and engineering」へとつながり、同年、E.A.T.の設立を直接的に導く。
1960年代は学際的な実験にとって肥沃な土壌であり、社会文化的変化とベル研究所における急速な技術進歩が、芸術家とエンジニアが協力して新たな可能性を探求するための環境を醸成していた。
ここでは、 E.A.T.の活動を追いつつ、現代における Art Collectiveとの結節点を考察していきたい。
E.A.T.の設立:目的、背景、主要創設者
E.A.T.は、ロバート・ラウシェンバーグ(芸術家)、ビリー・クルーヴァー(エンジニア)、ロバート・ホイットマン(芸術家)、フレッド・ワルドハウアー(エンジニア)の4人の創設者によって、芸術家、エンジニア、科学者の間の協働を促進することを目的として設立された。彼らは、この学際的な相互作用が社会全体に大きな利益をもたらすと信じていた。
E.A.T.の主な目的は、プラスチック、反射材、樹脂、ビデオといった新しい素材や、電子機器やコンピューターといったテクノロジーを、そうでなければアクセスできなかったであろう芸術家に提供することであった。
E.A.T.は、単なる芸術運動として統一された美学を持つのではなく、むしろ実践的で促進的な役割を果たすサービス組織として構想されたのである。
E.A.T.の設立の背景には、当時の時代状況も影響している。冷戦や軍事的な思惑が芸術的野心と絡み合うこともあった時代において、テクノロジーの変化から個人が分離していくという状況を探求したいという願望も存在していた。創設者たちの多様な背景、すなわち2人の芸術家と2人のエンジニアが当初から関与していたことは、バランスの取れた視点を保証し、分野を超えたコミュニケーションを促進する上で不可欠であった。
芸術とテクノロジーの協働を通じて社会に貢献するという考えは、単なる芸術的革新を超えた、より広範なビジョンを示すE.A.T.の核心的な理念であったのだ。


主要人物とその創設者以外の貢献
E.A.T.の発展と活動には、4人の創設者以外にも重要な役割を果たした人物が数多く存在した。弁護士のフランクリン・コニグスバーグは、法人化の手続きを支援し、スーザン・ハートネットは、E.A.T.の事務局長となり、後に芸術家とエンジニアの関係を担当した。クラウディオ・バダル、ラルフ・フリン、ピーター・プールはスタッフとして加わり、事務所、作業エリア、機材倉庫、会議エリアを含むロフトスペースの改修に貢献した。特にラルフ・フリンは、「9イブニングス」のために製作された技術機器の芸術家による使用を支援する役割を担った。
エンジニアのロビー・ロビンソンとパー・ビヨーンは、音と光の変調、特殊な録音、電子回路に関するプロジェクトで芸術家を支援するためにボランティアとして参加する。ジム・マギーとディック・ウルフは、パネルディスカッションのための音響切り替え、テレビ投影、プロジェクターと音源の制御を組織するのを手伝った。弁護士で調停者のセオドア・W・キールは、E.A.T.に熱心になり、資金調達のアイデアを含むアドバイス、支援、サポートを提供し、後に実行委員会の委員長となった。ジョン・パワーズは正式に理事会の議長に就任した。ウォルター・H・アルナー、リチャード・ベラミー、ルービン・ゴレウィッツ、マリオン・ジャヴィッツ、ハーマン・D・ケニン、ジェルジ・ケペス、エドウィン・S・ラングサム、ポール・A・ルペルク、マックス・V・マシューズ、ジェラルド・オーデオーバー、シーモア・シュウェバー、シモーヌ・ウィザーズ・スワン、マリー=クリストフ・サーマンも理事会のメンバーであり、様々な分野からの幅広い支持を示した。E.A.T.ニュースの編集者となったジュリー・マーティンは、コミュニケーションの重要性を強調している。ローズ・ペトロックは事務アシスタントを務め、ピーター・プールは技術情報、図書館、研究の責任者であり、マッチングと技術サービスも監督した。フランシス・メイソンはE.A.T.の暫定社長を務めた。
芸術家のジョン・ケージ、イヴォンヌ・レイナー、ルシンダ・チャイルズ、デボラ・ヘイ、デビッド・テュダー、スティーブ・パクストンなどもグループと関わっていた。注目すべきエンジニアには、ベラ・ジュールズ、マックス・マシューズ、ジョン・ピアース、マンフレッド・シュローダー、フレッド・ワルドハウアーなどが含まれる。このように、E.A.T.の成功は、創設者だけでなく、芸術、テクノロジー、法律、行政といった多様な分野の専門家からなる広範な支援ネットワークに支えられていた。9イースト16番街のロフトスペースの設立は、管理、技術作業、会議のための中心的な拠点を提供し、E.A.T.の運営能力にとって不可欠であった。
画期的なプロジェクトとイベント:芸術とテクノロジーの風景を形作る
E.A.T.は、その使命と影響を示す重要なイニシアチブを数多く世に発信している。
「9 evenings : theatre and engineering」(1966年10月)
ニューヨークの第69連隊武器庫で開催されたこのパフォーマンスシリーズは、E.A.T.の最初のプロジェクトであり、極めて重要な出来事でした。10人の前衛的な芸術家とベル電話研究所の30人のエンジニアが協力した。参加した芸術家には、ジョン・ケージ、イヴォンヌ・レイナー、ルシンダ・チャイルズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ロバート・ホイットマン、デビッド・テュダー、デボラ・ヘイ、スティーブ・パクストン、オイヴィン・ファールストローム、アレックス・ヘイなどがいた。
このパフォーマンスでは、閉回路テレビ、テレビ投影、光ファイバーカメラ、赤外線カメラ、ドップラーソナー、ワイヤレスFM送信機といった新しいテクノロジーが先駆的に使用された。このイベントは、当時の演劇的慣習を超えて、テクノロジーを現代のパフォーマンスの実践に統合しようとする重要な試みと見なされている。
「9 evenings」における経験と協働が直接的なきっかけとなり、同年(1966年)にE.A.T.が正式に設立されることになる。ベル研究所のエンジニアの参加は、「9 evenings」の技術的な洗練にとって不可欠であった。
ペプシ館(1970年大阪万博)
これは、E.A.T.の活動の頂点であり、大規模な国際的な協働プロジェクトであった。E.A.T.の芸術家とエンジニアが設計・プログラムした没入型ドームが特徴であった。中谷 芙二子による霧の彫刻、ロバート・ブリアーによる電動フロート、フォレスト・マイヤーズによる光フレーム彫刻、デビッド・テュダーによるサウンドシステムなどの要素が含まれていた。
ペプシ館は、大規模な公共プロジェクトに関与し、多感覚的な環境を作り出すというE.A.T.の野心を示した。ドーム、霧の彫刻、レーザー、サラウンドサウンドの説明は、より多くの観客に向けた没入型体験への伝統的な芸術空間からの移行を示唆している。ところで、当時、ライブプログラミングの内容と費用をめぐって、ペプシコーラとE.A.T.の間で意見の不一致が生じていたらしい。 ペプシコーラとの間の緊張は、E.A.T.の実験的なアプローチとペプシのマーケティング目標との間の潜在的な衝突を示唆しており、芸術的ビジョンを企業の利益と財政的制約と統合する際の課題を浮き彫りにしていた考えられる。

その他の重要なプロジェクトとイニシアチブ
ブルックリン美術館で開催された「サム・モア・ビギニングス:芸術とテクノロジーの実験」(1968-69年)は、芸術とテクノロジーに関する最初の国際展であった。E.A.T.の芸術家とエンジニアのマッチングサービスであるテクニカルサービスプログラムは、6,000人の会員を誇り、約500点の作品が制作された。EATEXディレクトリプロジェクトは、新興の情報テクノロジーを使用して、芸術家、エンジニア、科学者間の分散型コミュニケーションを促進することを目的としていた。エンジニアによる芸術作品への最良の貢献に対するコンテストも開催された。インドの教育テレビ向け教材プログラミングの開発(アナンドプロジェクト)や、テレックスを介して公共スペースを接続するテレックスQ&Aなど、伝統的な芸術以外のプロジェクトも実施された。マディソンスクエアガーデンでの「100万平方フィートの芸術」インスタレーションも特筆すべきプロジェクトである。
E.A.T.の活動は、展覧会やパフォーマンスを超えて、コミュニケーションネットワーク、教育イニシアチブ、公共芸術への介入を含む幅広い分野に及んでた。EATEXディレクトリプロジェクトにおける分散型コミュニケーションへの移行は、インターネット以前の時代におけるネットワークとコラボレーションに対する先見の明のあるアプローチを反映している。タイムシェアリングコンピューターデータバンクやテレックスネットワークの探求は、創造的なコラボレーションにおける地理的な障壁を克服するためにテクノロジーを活用することへの初期の関心を示している。
ロバート・ラウシェンバーグとビリー・クルーヴァーの明確な貢献
ロバート・ラウシェンバーグの関与は、テクノロジーを自身の作品に取り込むことに深い関心を持っていた芸術家の視点から分析することができる。彼は共同創設者としての役割を果たし、「9 evenings」やペプシ館などのプロジェクトに積極的に参加した。彼の初期の「コンバイン」作品群は、E.A.T.への関与の先駆けとなり、E.A.T.ニュースの創刊号のデザインも担当している。
一方、ビリー・クルーヴァーの貢献は、芸術とテクノロジーの統合を構想したエンジニアとしての視点から分析できる。彼は主要な創始者およびコーディネーターとして、「9 evenings」の準備段階で特に重要な役割を果たした。彼は、創造的なプロセスにおいて芸術家とエンジニアが対等に参加することを信じていた。彼はまた、ペプシ館プロジェクトにおいても中心的な役割を果たした。
ラウシェンバーグは、芸術的な感性と新しいテクノロジーを実験する意欲をもたらし、一方、クルーヴァーは、コラボレーションを促進するためのエンジニアリングの専門知識と組織的な推進力を提供した。彼らの補完的なスキルとビジョンがE.A.T.の成功に不可欠であったことは、それぞれの背景と主要プロジェクトにおける役割を検討することで明らかになる。ラウシェンバーグの芸術的な評判は、芸術界におけるこの試みに信頼性をもたらした。さらに、クルーヴァーのビジョンは、単に技術的な支援を提供するだけでなく、芸術家とエンジニアの間の真の対話と交流を育むことを目指していた。彼の「積極的かつ平等な参加」という強調は、芸術家がテクノロジーを単なる道具として使用する以上の、より深い分野の統合への願望を示唆している。
ベル研究所の関与:共生関係
ベル電話研究所のE.A.T.への関与の範囲と性質を調査することは重要である。ベル研究所の40人以上のエンジニアと科学者が、パフォーマンスのための技術機器の開発に協力した。彼らは「9 evenings」において、時間と専門知識をボランティアで提供するという重要な役割を果たした。E.A.T.のプロジェクトでは、ベル研究所の技術が使用された。ベル研究所のエンジニアは、「9 evenings」以降もE.A.T.のプログラムやコンテストに継続的に関与してきた。近年、ベル研究所の芸術とテクノロジーの実験プログラムが再活性化されており、この交差点への継続的な関心を示している。
ベル研究所は、技術的な専門知識だけでなく、エンジニアのボランティア活動を通じて相当な人的資源も提供した。「9 evenings」には当初30人、その後40人以上のエンジニアが関与したという事実は、ベル研究所の人員の相当なコミットメントを示している。これは、学際的な探求に開かれた文化が研究所内に存在していたことを示唆している。ベル研究所との協力関係は、そうでなければ芸術家が入手できなかったであろう最先端のテクノロジーと研究へのアクセスをE.A.T.に提供した。使用された特定のテクノロジーに関する記述は、このパートナーシップが芸術的表現の限界を押し広げる上で重要であったことを強調している。ベル研究所によるE.A.T.への新たな関心は、イノベーションとコミュニケーションにおける芸術とテクノロジーの協力の継続的な関連性と可能性の認識を示唆している。数十年の時を経てベル研究所でE.A.T.プログラムが復活したことは、その永続的な影響と、この学際的なアプローチの継続的な価値への信念を示している。
変革的な影響:芸術とテクノロジーの分野におけるE.A.T.の足跡
E.A.T.の活動期間中およびそれ以降の芸術とテクノロジーの分野への広範な影響を評価することは重要である。E.A.T.は、芸術家とエンジニアの間の学際的な協力を先駆的に行った役割を強調することができる。ビデオ投影、ワイヤレス音響伝送、ドップラーソナーなどの新しいテクノロジーを芸術の実践に導入した貢献についても議論することができる。E.A.T.は、パフォーマンスアート、実験音楽、演劇への影響についても言及されている。その遺産は、メディアアートとアートサイエンス運動の出現に関連付けられている。E.A.T.は、芸術の定義と社会における芸術家の役割を拡大する上で役割を果たした。地域での協力を促進するために、地域E.A.T.支部が設立された。
E.A.T.は、テクノロジー分野との協力を正当化し、促進することで、芸術的創造の風景を根本的に変えた。E.A.T.以前は、そのような協力はあまり一般的ではなかった。この組織は、芸術家とエンジニアが協力するための枠組みとプラットフォームを提供し、将来の学際的な実践への道を開いた。E.A.T.は、最終的な芸術作品と同じくらい、協力のプロセスを重視していた。E.A.T.の影響は、マルチメディアとテクノロジーを日常的に作品に取り入れている現代のデジタルアーティストの世代に見ることができる。
例えば、Google Arts & Cultureの「アーティスト+マシン・インテリジェンス」プログラムやMicrosoft Researchのアーティスト・イン・レジデンス制度は、1960年代にE.A.T.が確立した芸術家と技術者の直接的協働モデルを踏襲している。こうしたプログラムでは、企業が保有する最先端のAI、機械学習、量子コンピューティング技術などがアーティストに提供され、技術者と対等に協働し、新たな表現の可能性を開拓する。この取り組みは、E.A.T.の「芸術家とエンジニアの平等な協働」という理念を現代的な形で具現化している。また、Ars Electronica は毎年、アート、テクノロジー、社会科学、環境学など多様な分野の専門家が集い、E.A.T.的な視点を持った作品展示やディスカッションを推進している。ここでは、E.A.T.が強調した「環境美学」や「テクノロジーと人間の共生」を現代の文脈で探求している。
活動期間と終焉の理由:E.A.T.の興隆と衰退
E.A.T.の活動期間は、一般的に1966年(一部の情報源では1967年)の設立から1970年代半ばまでとされ、また一部の活動は1990年代まで継続した。テクニカルサービスプログラムは、1973年に事実上中止されたが、その活動の低下または最終的な終了にはいくつかの潜在的な理由が考えられる。ペプシ館プロジェクトにおける財政難や意見の不一致について言及することができる。初期の集中的な革新と協力の期間が自然に進化した結果として、資金調達や管理上の課題が影響を与えた可能性もある。
E.A.T.の主要な活動は1960年代後半から1970年代初頭に集中していたが、その影響と遺産はこの期間をはるかに超えて広がっている。アーカイブ化の努力やその影響の継続的な認識は、組織自体の最終的な衰退にもかかわらず、その永続的な重要性を示している。1973年のテクニカルサービスプログラムの中止は、E.A.T.の運営モデルと焦点の重要な転換点となった可能性がある。このプログラムは、芸術家とエンジニアを直接結びつけるというE.A.T.の使命の中心であった。その終了は、優先順位の変化、またはこのモデルがもはや持続可能または必要ではないという認識を示唆している。
不朽の遺産:現代の芸術とテクノロジーの実践に対するE.A.T.の影響
E.A.T.の核となる原則と活動が、今日の芸術とテクノロジーの協力に与えた永続的な影響について考察することは、現代美術とテクノロジーの交差点を理解する上で極めて重要である。E.A.T.が示した「技術環境」の概念は、現代におけるデジタル化とその影響がますます深まる中で、その価値を増している。
E.A.T.は、芸術家と技術者が互いに協力し、革新的な方法で技術を利用することの重要性を強調した。この協力関係は、ベル研究所をはじめとする科学技術研究機関と芸術家との間で具体化され、現代の多くのアーティスト・イン・レジデンス・プログラムにその影響を見て取ることができる。特に、ノキア・ベル研究所でのベン・ニールの活動や、STEAM(科学、技術、工学、芸術、数学)イニシアチブなどは、E.A.T.の影響を色濃く反映している。
また、E.A.T.によって発展した「環境美学」の概念は、芸術、テクノロジー、生態学の交差点における現代の議論と深く関連している。これは、アートが単なる視覚的表現を超えて、環境や社会的影響を考慮に入れた新たな視点を提供していることを示唆している。このようなアプローチは、テクノロジーが私たちの周囲や社会にどのように作用するかを理解するための先見の明を持つものとして評価される。
E.A.T.の学際的な協力のモデルは、現代のアート機関やアーティストたちによっても採用され、適応されている。芸術とテクノロジーが交わる場所で新たな表現や思考の枠組みが生まれ、その影響は現在も続いている。
芸術とテクノロジーの歴史における重要な瞬間
E.A.T.の核となる原則と活動の、今日の芸術とテクノロジーの協力の状況に対する永続的な影響を考察することは重要である。革新的な方法でテクノロジーを利用する現代美術において、明確な影響や類似点を見出すことができる。E.A.T.によって開発された「環境美学」の概念と、芸術、テクノロジー、生態学に関する現代の議論との関連性について議論することができる。ベル研究所と芸術家の間の継続的な協力は、E.A.T.の永続的な影響の証として言及することができる。E.A.T.の学際的な協力のモデルが、現代の機関や芸術家によってどのように採用または適応されてきたかを検討することができる。
E.A.T.が提唱した「技術環境」を媒体および概念として捉える視点は、デジタル化が浸透した現代においてますます重要性を増している。テクノロジー企業や研究機関における現代のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムの普及は、E.A.T.の先駆的な取り組みの直接的な子孫と見なすことができる。ノキア・ベル研究所におけるベン・ニールの例や、STEAMイニシアチブの一般的な傾向は、テクノロジー環境にアーティストを組み込むというE.A.T.のモデルの永続的な影響を示しているといえるだろう。
1960年代にExperiments in Art and Technology(E.A.T.)が先駆けて開拓した芸術とテクノロジーの融合は、現代のアートコレクティブにも深く影響を与えている。E.A.T.が強調した「芸術家とエンジニアの平等かつ積極的な協働」や「社会的・環境的課題への取り組み」は、今日でもアートコレクティブが活動する際の重要な原則となっているように思える。
現代のアートコレクティブがE.A.T.から明確に継承しているのは、学際的な協働の精神とプロセス重視のアプローチである。特に、芸術とテクノロジーが融合した表現において、新素材や最新テクノロジーを積極的に取り入れ、技術環境を単なるツールとしてではなく、探究や実験の対象として捉える考え方は、多くのアートコレクティブで強く継承されている。また、没入型環境やインタラクティブな体験を通じて観客の能動的参加を促すという点でも、E.A.T.のペプシ館に代表される先駆的な試みがそのまま引き継がれているとも捉えられる。
一方で、E.A.T.の理念が必ずしも完全に継承されているとは限らない側面もある。現代のアートコレクティブにおいては、企業との連携が進むにつれて、E.A.T.が強調した社会的・環境的な課題への批評的視点が後退し、技術のエンターテインメント的側面や商業的成功に偏りがちになる傾向が見られる。特に、大規模な商業展示やデジタルインスタレーションにおいては、観客の注目を引く視覚的・感覚的刺激が優先され、技術がもたらす社会的影響や倫理的課題についての深い議論が軽視されるケースもある。また、アートコレクティブが企業やスポンサーからの資金提供に依存することによって、作品が商業的な要請に迎合し、批評性や自主性が損なわれるリスクも指摘されている。こうした状況は、E.A.T.が追求した「技術と人間の共生」や「環境美学」の倫理的・哲学的な議論を希薄化させる一因となり得るのではないだろうか。
E.A.T.の考え方は現代のアートコレクティブにおいてなお重要な示唆を与えているが、その理念の継承には、単に技術の活用を超えて、社会的・倫理的な文脈の再考察が不可欠である。容易では無いが、今後のアートコレクティブが真にE.A.T.の遺産を発展させるには、技術的革新だけでなく、その技術が社会や環境に与える影響を批評的に捉え、深く問い直すことが求められているのではないだろうか。