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E.A.T. の活動から芸術と技術の創発を捉え直す

なぜ、今、E.A.T. に着目しているのか?

「芸術と技術」は、私自身、学生時代からのテーマの1つであり、常に脳裏に漂う活動の態度の1つでもある。

さて、「芸術と技術」(或いは、芸術と科学)の言葉を遡ると、20世紀初頭の「未来派」のその萌芽があり、現在においては、例えば、Rhizomatiksをはじめとして様々な組織や活動が生まれており、「芸術と技術」から派生される新たな先端表現やその魅力は社会に大きな影響を与えている。そうした活動を辿っていくとExperiments in Art and Technology(以下、E.A.T.)の存在があり、決して無視はできない理念の根源、源流の1つであると言っても良い。

ただ、個人的に芸術と技術を標榜しながらも、E.A.T.について、その理念や活動の成り立ちは不勉強であった。不勉強のままではこれはいかん・・と思い、本日、一気に調べている。そして、どうせなら、備忘として、まとめておこうということで、ツラツラとキーボードを叩いているのである。

では、ここから本題ということで、E.A.T.についてまずは概略程度にみていきたい。

1960年代は、社会、文化、テクノロジーにおいて大きな変化が見られた時代であり、芸術と技術の交差は目覚ましい発展を遂げた。この変革期において、現代美術において革新的な素材と主題へのアプローチで知られるロバート・ラウシェンバーグと、芸術的な協働に対する先見の明を持っていたベル電話研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァー、そして、創的な演劇作品で知られる、ロバート・ホイットマンという重要な人物がいた。

彼らの協働と化学反応が、E.A.T.の設立へとつながっていく。

E.A.T.は、ニューヨークを拠点として、美術、ダンス、電子音楽、映像など幅広い表現ジャンルを横断し、アートとテクノロジーを結ぶ数多くの実験作品を世に発信していった。彼らの代表的なプロジェクトとして、40名もの技術者たちが参加して、1966年に行なわれたイヴェント「9 evenings : theatre and engineering(九つのタベー演劇とエンジニアリング)」、1968年のブルックリン美術館における「サム・モア・ビギニングズ展」の企画、1970年の大阪万国博における「ペプシ館」などがある。さらには、最盛期には数千名もの会員を擁しており、E.A.T.のコンセプトや精神は、その後1980年代以降の「芸術と科(Art and Technology)」の分野に大きな影響を与えたと言っても過言ではない。

1970年代半ばに、その活動は終止符を打ったが、E.A.T.が、芸術家とエンジニアが協力して新たな可能性を探求するための環境を醸成していたことは間違いなく、その足跡は、現在、芸術と技術を探求するもの、可能性を見出すものにとっては、追認すべき活動だと、私は考える。

そこで、本稿では、E.A.T.の活動を追いつつ、現代における「芸術と技術」にまつわる諸課題を捉え直し、己の創作活動などへの態度のヒントを得ていきたいと思う。

E.A.T.の成り立ちとは?

E.A.T.は、ロバート・ラウシェンバーグ(芸術家)、ビリー・クルーヴァー(エンジニア)、ロバート・ホイットマン(芸術家)によって、芸術家、エンジニア、科学者の間の協働を促進することを目的として設立された。彼らは、この学際的な相互作用が社会全体に大きな利益をもたらすと信じていた。

ここで、中心人物の1人であるビリー・クルーヴァーに注目したい。

ビリー・クルーヴァーは、スウェーデンのストックホルム王立工科大学で電子工学の学位を取得し、アメリカではバークレイにあるカリフォルニア大学でも同様の専門知識を深めた。1960年代、彼はニュージャージー州マリーヒルに所在するベル電話研究所で勤務し、レーザーのノイズ計測器の開発や電界強度と磁気強度の比較研究に従事していた(※1)。

その一方で、彼はニューヨークにおける現代アートの急速な発展に目を向け、多くの先鋭的なアーティストとの交流を通じて、芸術界の新たな動向を肌で感じていた。これにより、アーティストたちの創造的なビジョンを実現するための手段として、自身の新技術に関する知識が有用であることに早い段階で気付くようになったのである。

また、彼は新しいテクノロジーの発展と、その技術が個々人にとってより望ましい形で普及していくための力について深く考察していた。1959年発表の論文『人間とシステムについての断章』において、彼はエンジニアや科学者が、自ら開発するテクノロジーやその進展する方向性に対して全面的な責任を負うべきであると主張している(※1)。すなわち、テクノロジーは一方向に固定されるものではなく、常に変化と多様な可能性を秘めたものであることを、科学者たちは認識すべきだという考えであった。このような考え方が、E.A.T.の「テクノロジーを人間的にする(make technology human)」の大きな理念に接続され、芸術と技術の融合は知的・文化的な意義のみならず社会的・倫理的にも価値ある「善」であるとの確信につながったと考える(※1)

しかし、エンジニアたちは、長年にわたる正式な教育を通じ、科学特有の用語や方法論に慣染み、その結果、画期的な発見や発明がたとえあったとしても、それらの貢献はしばしば暗黙の了解による学術システムの枠組み内に留まってしまう傾向があると指摘する。

対して、アートの領域はこれらのシステムの外に位置しており、アーティストの発想は既存の西欧思想の枠組みを超えたり、大きく再構築したりする柔軟性を持っている。実際、彼にとってマルセル・デュシャンがレディメイドとして提示した雪かきシャベルは、単独の行為で伝統的な芸術概念の壁を打破しうる力を象徴していると評していた。エンジニアが脱領域的な態度を体得するためには、アーティストとの共創が突破口となると考えていたのである。

Billy KLÜVER
Billy KLÜVER(1927〜2004)

1966年頃、彼はすでにエンジニアとして、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホル、イヴオンヌ・レイナーら著名なアーティストとの共同作業に従事していた。この経験から、アーティストは知的自由とそれに伴う責任感をもって、個人にとって役に立つような新しいテクノロジーをかたちづくることができるということを実感したという。

この経験に基づき、彼はアーティストが最先端のテクノロジーを活用して作品を制作すること、そしてそのテクノロジーを開発するエンジニアや科学者に直接アクセスすることの双方が極めて重要であると認識した。そして、その最も効果的な方法として、アーティストとエンジニア/科学者が1対1の関係で協力し合い、それぞれの専門知識を持ち寄るコラボレーション、共創のかたちを見出したのである。この発想が、その後の、E.A.T.の基本的な運営理念となり、組織の存在理由を形成する根幹となったのである。

このように、E.A.T.は、単なる芸術運動として統一された美学を持つのではなく、むしろ実践的で促進的な役割を果たすサービス組織として構想されたのである。

E.A.T.の設立の背景には、当時の時代状況も影響している。冷戦や軍事的な思惑が芸術的野心と絡み合うこともあった時代において、テクノロジーの変化から個人が分離していくという状況を探求したいという願望も存在していた。創設者たちの多様な背景、すなわち2人の芸術家と1人のエンジニアが当初から関与していたことは、バランスの取れた視点を保証し、分野を超えたコミュニケーションを促進する上で不可欠であった。

芸術とテクノロジーの協働を通じて社会に貢献するという考えは、単なる芸術的革新を超えた、より広範なビジョンを示すE.A.T.の核心的な理念であったのだ。

主要人物と活動拡大の根拠について

E.A.T.の発展と活動には、4人の創設者以外にも重要な役割を果たした人物が数多く存在した。弁護士のフランクリン・コニグスバーグは、法人化の手続きを支援し、スーザン・ハートネットは、E.A.T.の事務局長となり、後に芸術家とエンジニアの関係を担当した。クラウディオ・バダル、ラルフ・フリン、ピーター・プールはスタッフとして加わり、事務所、作業エリア、機材倉庫、会議エリアを含むロフトスペースの改修に貢献した。特にラルフ・フリンは、「9イブニングス」のために製作された技術機器の芸術家による使用を支援する役割を担った。  

エンジニアのロビー・ロビンソンとパー・ビヨーンは、音と光の変調、特殊な録音、電子回路に関するプロジェクトで芸術家を支援するためにボランティアとして参加する。ジム・マギーとディック・ウルフは、パネルディスカッションのための音響切り替え、テレビ投影、プロジェクターと音源の制御を組織するのを手伝った。弁護士で調停者のセオドア・W・キールは、E.A.T.に熱心になり、資金調達のアイデアを含むアドバイス、支援、サポートを提供し、後に実行委員会の委員長となった。ジョン・パワーズは正式に理事会の議長に就任した。ウォルター・H・アルナー、リチャード・ベラミー、ルービン・ゴレウィッツ、マリオン・ジャヴィッツ、ハーマン・D・ケニン、ジェルジ・ケペス、エドウィン・S・ラングサム、ポール・A・ルペルク、マックス・V・マシューズ、ジェラルド・オーデオーバー、シーモア・シュウェバー、シモーヌ・ウィザーズ・スワン、マリー=クリストフ・サーマンも理事会のメンバーであり、様々な分野からの幅広い支持を示した。E.A.T.ニュースの編集者となったジュリー・マーティンは、コミュニケーションの重要性を強調している。ローズ・ペトロックは事務アシスタントを務め、ピーター・プールは技術情報、図書館、研究の責任者であり、マッチングと技術サービスも監督した。フランシス・メイソンはE.A.T.の暫定社長を務めた。  

芸術家のジョン・ケージ、イヴォンヌ・レイナー、ルシンダ・チャイルズ、デボラ・ヘイ、デビッド・テュダー、スティーブ・パクストンなどもグループと関わっていた。注目すべきエンジニアには、ベラ・ジュールズ、マックス・マシューズ、ジョン・ピアース、マンフレッド・シュローダー、フレッド・ワルドハウアーなどが含まれる。このように、E.A.T.の成功は、創設者だけでなく、芸術、テクノロジー、法律、行政といった多様な分野の専門家からなる広範な支援ネットワークに支えられていた。9イースト16番街のロフトスペースの設立は、管理、技術作業、会議のための中心的な拠点を提供し、E.A.T.の運営能力にとって不可欠であった。  

このように、単なる、Collectiveの範疇ではなく、大きな組織体として、その活動を拡大していった様子がうかがえる。

芸術と技術が生み出した新しい景色とは

E.A.T.は、その使命と影響を示す重要なイニシアチブを数多く世に発信している。

「9 evenings : theatre and engineering」(1966年10月)

ニューヨークの第69連隊武器庫(そこはレキシントン街と25丁目の角にある広大な空間であった)で開催されたこのパフォーマンスシリーズは、E.A.T.の最初のプロジェクトであり、極めて重要な出来事であった。10人の前衛的な芸術家とベル電話研究所の30人のエンジニアが協力し、参加した芸術家には、ジョン・ケージ、イヴォンヌ・レイナー、ルシンダ・チャイルズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ロバート・ホイットマン、デビッド・テュダー、デボラ・ヘイ、スティーブ・パクストン、オイヴィン・ファールストローム、アレックス・ヘイなどがいた。パブリシティ・キャンペーンも行っていたことから、毎晩駆けつけた観客は1500人以上、それまでは前衛的なパフォーマンスを見たことが無い一般の方々が大多数であったらしい。

このパフォーマンスでは、閉回路テレビ、テレビ投影、光ファイバーカメラ、赤外線カメラ、ドップラーソナー、ワイヤレスFM送信機といった新しいテクノロジーが先駆的に使用された。このイベントは、当時の演劇的慣習を超えて、テクノロジーを現代のパフォーマンスの実践に統合しようとする重要な試みと見なされている。  

いくつかのパフォーマンスのうち、例えば、ジョン・ケージによる<ヴァリエーションズⅦ>は、「演奏時にリアル・タイムに様々な音を活用する」ということを考え、会場までニューヨーク電話会社が10本の電話線を引き、レストランのルチョーズ、野鳥の情報機関エヴィアリー、コン・エディション発電所、アメリカ動物愛護協会の迷子保護所、ニューヨーク・タイムズ社の記者室、マース・カニングハム舞踊団のスタジオなど市内各所と電話で接続。受話器に付けた磁気マイクがこれらの場所の音を音響操作システムに送り返すという仕組みを作っている。ケージはまたコンタクト・マイクを、仮設ステージ自体に6個、ミキサーやジューサー、トースター、扇風機などの家庭用機器に12個、それぞれ取り付けた。さらに20台のラジオ、2台のテレビを取り込み、2台のガイガー・カウンターも用意。これらにいくつかの発振機とパルス発生機とを加えて音源を揃え、パフォーマンス・エリアの随所に、30個の太陽電池とライトを足首ほどの高さに設置。これらが、パフォーマーたちの動きにつれて、そのときどきに異なった音源を作動させる仕組みを作り、パフォーマンスを行った。

「9 evenings」における経験と協働が直接的なきっかけとなり、ニューヨークのアーティストの間で、新しいテクノロジーを作品に活用しようという機運が大きく膨らむ。そして、同年(1966年)にE.A.T.が正式に設立されることになる。さらに、翌年の1月には、E.A.T.の組織づくりとアーティストとエンジニアを結び付けるための活動を伝えるニューズレターの発行をはじめ、会員のエンジニアやアーティストに手段や方法についての具体的な情報を提供する『E.A.T. Operations and Information』と、新しいテクノロジーを用いるアーティストとエンジニアのあいだでのコラボレーションやプロジェクトについての論文などを載せた新聞「TECHNE」の刊行をはじめ、その活動は広く知られることになる。

ペプシ館(1970年大阪万博)

これは、E.A.T.の活動の頂点であり、大規模な国際的な協働プロジェクトであった。パヴィリオンのデザインに貢献したエンジニア、アーティスト、科学者たちは、総勢63人にのぼり、多くのアーティストとエンジニア、科学者が協働にて設計に取り組んだ。E.A.T.の芸術家とエンジニアが設計・プログラムした没入型ドームが特徴であった。中谷 芙二子による霧の彫刻、ロバート・ブリアーによる電動フロート、フォレスト・マイヤーズによる光フレーム彫刻、デビッド・テュダーによるサウンドシステムなどの要素が含まれていた。

ペプシ館の断面図をみると、観客は右側のトンネルをくぐって入り、レーザー光の模様が動く貝、すなわち貝(クラム)のような形の暗い部屋に降りてゆく。階段をのぼると、そこは、ロバート・ホイットマンのアイディアによる「ミラー・ドーム」。直径27mあまり、210度のアルミ皮膜でおおわれたマイラー(強化ポリエステルフィルム)製の球体ミラーで、床と観客の実像がさかさまになって頭上の宙に映るように設計されていた。

Ref.: E.A.T.─芸術と技術の実験, ICC, 2003

また、32の入力チャンネルをもつ一つの「楽器」となるようなサウンド・システムを設計し、それをミラーの背後のドームの表面に、37のスピーカーを菱形状に並べた。音響はドーム中でさまざまに異なる速度で移動させることが可能であり、あるいは、一つのスピーカーから別のスピーカーにいきなり移し、点音源をつくりだすこともできる。アーティストのトニー・マーティンが設計したライト・システムも、またサウンド・システムも、あらかじめプログラムに組んだり、ドームの片側にある制御装置からリアル・タイムでコントロールが可能となっていた。

ロープになった床や天井は、ロバート・ホイットマンの設計で、パヴィリオンの外と階上のミラー・ドームとのあいだの変わり目になる。そこは、ミラー・ドームの中心部であるガラス天井からほのかな光が来るだけで暗い。音で起動するレーザー光線の屈曲システムが直径3mほどの動く模様となって床や観客に降りそそぐ設計となっている。さらには、ローウェル・クロースが、このビームをクリプトン・レーザーから四つの色に分け、それぞれのカラー・ビームを直角に置かれたミラーに送り、1秒間に500サイクルまで振動するシステムを設計している。(こればかりは、体験してみないとなかなかイメージができない)

中谷 芙二子氏は、ム・ミー博士を見つけてきて、彼がノズルによる霧の噴射システムを考案したという。1平方インチあたり500ポンドの圧力をかけた水を口径10ミル(250ミクロン)の穴から噴出させ、それが小さなピンに当たって砕け散り、空中に留まれるくらいの微細な水滴となるのである。ジェット噴射ノズルの数は2520個。ノズルは、1本3mほどのプラスティック・パイプに約30cm間隔でついている。それらのパイプが、パヴィリオンの屋根の稜線と谷に取り付けられた。このシステムによって、厚さおよそ1.8m、直径45mほどの、低くたれこめた雲のエリアをつくることができた。

ペプシ館は、大規模な公共プロジェクトに関与し、多感覚的な環境を作り出すというE.A.T.の野心を示した。ドーム、霧の彫刻、レーザー、サラウンドサウンドの説明は、より多くの観客に向けた没入型体験への伝統的な芸術空間からの移行を示唆していた。  

その他の重要なプロジェクト

ブルックリン美術館で開催された「サム・モア・ビギニングス:芸術とテクノロジーの実験」(1968-69年)は、芸術とテクノロジーに関する最初の国際展であった。E.A.T.の芸術家とエンジニアのマッチングサービスであるテクニカルサービスプログラムは、6,000人の会員を誇り、約500点の作品が制作された。EATEXディレクトリプロジェクトは、新興の情報テクノロジーを使用して、芸術家、エンジニア、科学者間の分散型コミュニケーションを促進することを目的としていた。エンジニアによる芸術作品への最良の貢献に対するコンテストも開催された。インドの教育テレビ向け教材プログラミングの開発(アナンドプロジェクト)や、テレックスを介して公共スペースを接続するテレックスQ&Aなど、伝統的な芸術以外のプロジェクトも実施された。マディソンスクエアガーデンでの「100万平方フィートの芸術」インスタレーションも特筆すべきプロジェクトである。  

E.A.T.の活動は、展覧会やパフォーマンスを超えて、コミュニケーションネットワーク、教育イニシアチブ、公共芸術への介入を含む幅広い分野に及んでた。EATEXディレクトリプロジェクトにおける分散型コミュニケーションへの移行は、インターネット以前の時代におけるネットワークとコラボレーションに対する先見の明のあるアプローチを反映している。タイムシェアリングコンピューターデータバンクやテレックスネットワークの探求は、創造的なコラボレーションにおける地理的な障壁を克服するためにテクノロジーを活用することへの初期の関心を示している。

芸術と技術の分野におけるE.A.T.の足跡

さて、これまでみてきたように、E.A.T.の活動期間中およびその後の、芸術と技術における広範な影響を評価することは極めて重要であるといえよう。

アーティストとエンジニアリングの世界を結びつけるという発想は、E.A.T.独自のものではない。同時期のアメリカ西海岸でも、ロサンゼルス郡立美術館の学芸員モーリス・タックマンが企画した「アート・アンド・テクノロジー・プロジェクト」(1967-71)では、アーティストが企業に滞在して技術力を活かした作品制作を行った。1930年代初頭には、ロックフェラーやIBMがモダン・アートの発展に経済的に関与していた。しかし、E.A.T.が行ったのは、企業フィランソロフィーの増進でも資金提供者の斡旋でもなく、人と人、才能と才能の出会いを組織者の情熱とわずかなルールに基づいて条件づけることだった(※)態度が大きく違うのである。

E.A.T.は、1966年(一部の情報源では1967年)から1970年代半ばまでを中心に活動し、一部のプロジェクトは1990年代まで継続している。芸術家とエンジニアの学際的協力を先駆的に促進したことで知られ、ビデオ投影、ワイヤレス音響伝送、ドップラーソナーといった新技術を芸術表現に取り入れる役割を果たした。また、パフォーマンスアート、実験音楽、演劇などの分野にも多大な影響を与え、その遺産は現代のメディアアートやアートサイエンス運動にも深く関連付けられている。

E.A.T.以前は、芸術とテクノロジー分野の協力は一般的ではなかったが、この組織は芸術家とエンジニアが対等に協力できる枠組みやプラットフォームを提供した。さらに、E.A.T.は最終的な芸術作品だけでなく、協力のプロセス自体を重視した点でも革新的であったのだ。

E.A.T.の影響は、現代のデジタルアーティストが日常的にマルチメディアとテクノロジーを作品に取り入れていることからも明らかである。例えば、Google Arts & Cultureの「アーティスト+マシン・インテリジェンス」プログラムやMicrosoft Researchのアーティスト・イン・レジデンス制度は、1960年代にE.A.T.が提唱した協働モデルを現代的に再解釈し、最先端技術をアーティストが活用する場を提供している。さらにArs Electronicaは、E.A.T.が強調した「環境美学」や「テクノロジーと人間の共生」を、現代の多様な専門家たちが集う場で再考・発展させている。

また、E.A.T.の提唱した「環境美学」は、芸術、テクノロジー、生態学の交差点において現代の重要な議論につながっている。これは、アートが視覚表現を超え、環境や社会に対する影響を考える新たな視点を提供することを示しており、現代社会におけるデジタル化の深化の中で、その価値はますます重要になっている。

E.A.T.の理念はベル研究所をはじめとする多くの科学技術研究機関と芸術家の協力関係の基盤となり、現代のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムにも継承されている。ノキア・ベル研究所におけるベン・ニールの活動やSTEAM(科学、技術、工学、芸術、数学)イニシアチブはその代表的な例である。

しかし、1973年にはE.A.T.の中心的活動であった「テクニカルサービスプログラム」が中止された。このプログラム終了の背景には、ペプシ館プロジェクトにおける財政難や運営上の意見の不一致などがあり、E.A.T.の運営モデルや活動の方向性が変化した転換点とも捉えられる。

E.A.T.はその運営が停止した後も、アーカイブ化や歴史的評価を通じて永続的な影響力を保っている。芸術とテクノロジーの協力を正当化し推進したE.A.T.の業績は、今日においても芸術の役割やその社会的意義を再定義する上で欠かせない視点を提供し続けているといえる。

E.A.T.以降、芸術と技術、或いは芸術と科学のゆくえ

ここまでの調査も踏まえながら、ここでは、芸術と技術の創発について、改めて捉え直していきたい。

1960~70年代におけるE.A.T.に象徴される芸術と技術の協働運動は、芸術家と技術者が対等に協力し、「テクノロジーを人間的にする(make technology human)」という明確な理想を掲げていた。この運動では、異分野の専門家が共同作業を通じて社会的な連帯を築き、技術社会に人間的価値を与えようとしていた。

しかし、1980年に美術評論家ジャック・バーナムは「アートとテクノロジー:万能薬は失敗した(※4)」と述べ、芸術と技術の協働が期待通りの革新を生まなかったと厳しく批評している。1970年代末以降、技術と芸術の協働は徐々に失速し、1980年代には市場主導の消費文化が主流となったことで、技術は商品化され、人々は個々の消費者として孤立化した。結果として、公共的な共同性や社会変革を目指す創造性の意義は薄れ、芸術は商業化とブランド化に取り込まれてしまった。

この過程で失われたものの一つは、異分野協働の精神である。技術は一方向的に提供される商品となり、真の意味での学際的共創が減少した。さらに、コミュニティの連帯感も弱まり、創造的想像力やユートピア的な未来ビジョンといった批評的機能が市場消費的なイメージに置き換わった。技術革新への人文的・創造的な介入も困難になった。

一方で、現代のアートコレクティブにはE.A.T.から継承された要素がある。特に、新素材や最新テクノロジーを積極的に取り入れ、技術環境を探究や実験の対象として捉える学際的な協働精神、プロセス重視のアプローチ、没入型環境やインタラクティブな体験によって観客の能動的参加を促す姿勢などがそれである。しかし同時に、現代のアートコレクティブは企業との協働が増えるにつれて、技術のエンターテインメント性や商業的成功に傾きがちであり、E.A.T.が強調した社会的・環境的課題への批評的視点や倫理的・哲学的な議論は軽視される傾向も見られる。

E.A.T.の遺産を現代において本質的に発展させるには、技術的革新を追求するだけでなく、社会的・倫理的な視点から技術が社会や環境に与える影響を批評的に再考する必要がある。

現代のアートコレクティブがその本来的な価値を取り戻し、人間とテクノロジーの健全な共生関係を築くためには、この批評的再検討が不可欠な課題となるのではないだろうか…?(続く)

Reference

※1:E.A.T.─芸術と技術の実験, ICC, 2003

※2:Brand New: Art and Commodity in the 1980s, 2018(Exhibition Review)

※3:Shanken, Edward. (2007). Historicizing Art and Technology: Forging a Method and Firing a Canon. 10.7551/mitpress/4530.003.0007.

※4:All Systems Go: Recovering Jack Burnham’s ‘Systems Aesthetics’

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